我慢を讃えるより、頑張らないで良いという許可が欲しかった
edit2017.06.26 1,521
前職の私は、とにかくなんか耐えてた。
締め切りに追われる恐怖と苦しさに耐えた。
周りの言葉に傷つく態度を見せることを耐えた。
周りを助ける為に、自分の仕事量を重くしていた。
その行動は実を結び、周りに感謝されることは勿論あった。
その時によく言われていたことは、
『みんなのこと守ってるじゃん(偉いよ)』
『あんなこと言われても、笑顔で対応しての偉いよ、凄いよ。』
『みんなにあんな態度取られても、ちゃんと接してて偉いなぁと思ってました。』
こんな感じ。
初めは嬉しかった、自分の頑張りを誰かが見てる。
誰かが、その態度を尊敬してくれる。
私が輝く場所はここなんだ。
でも、どうして…どうしてどこか孤独なんだろう?
日が経つにつれて、そんな賞賛が嬉しくなくなっていたのは、どうしてだったのか…?
そんな賞賛がありつつも、私が辛い時に、きちんと受け止めてくれた人は、本当に少なかった。
褒めてはくれるけど、けなしもする。
褒めてくれるけど、味方ではない。
褒めてくれるけど、共感はしてくれない。
褒めてくれる人に、好感が持てないこと、なんだか気持ち悪いような、嬉しいはずなのに嬉しく思えない自分に、不快感を覚えた。
それが、なぜだったのか…?
そんな環境から離れ、しばらくして気付いたことがある。
私が欲しかったのは、賞賛ではない。
讃えられることよりも、偉いと言われるよりも、
そんなに頑張らなくても良いよ、無理しなくて良いよ。
そう言って欲しかった。
無理しないで息をして良いんだって。
頑張らなくて良いんだって。
頑張ることを認めてくれても、頑張らないことを許可してくれる人はいなかった。
或いは、そんなことが許される仕事量ではなかったかもしれない。
そもそも、上のポジションである人間に、『頑張らなくても良いよ』と、許してくれる人なんていなかったかもしれないけど。
でも、無理しないことを許して欲しかった。
だから、どんなに人に褒められても、私は孤独だったんだ。
本当にしたい事、それは休むこと。
でも頑張ってくれることを褒められたら、それは出来ない。
だって、頑張ることと休むことは、私にとって真逆なんだから。
味方だ、と言ってくれた人もいたけれど、その人の言葉に刃を感じることも多くあった。
味方だと言ってくれる人は、嬉しかったけど、私にとって味方だと感じることは出来なかった。
人に何か言われて傷ついた時、その人の言うことが理解出来ない、納得行かないと思うことがある。
周りが10人いて、1人の人間に傷つけられて、9人の人が賛同したら、私の言うことは悪いこと、或いは間違っている事、おかしいことになる。
仕事をしている時は、それが普通だと思っていた。
でも、辞めてみて思った。
『その考えも分かるけど…』
『その価値観も否定はしないよ。』
そんなような言葉はなかった。
私は、『尊重』のない場所に、いつしか恐怖を覚えて孤立した。
私にとっての味方は、自分の考えに共感してくれる人でも賛同してくれる人でもない。
理解を示そうという姿勢を見せてくれる人、尊重してくれる人だ。
一度、その人の考えを自分なりに考えてくれる人だ。
考えた後違うならそれで良いし、賛同してくれるならそれでも良い。
違う価値観が重なり合って、コミュニティは成長するけど、特に会社は同じ考えや価値観でまとめられていることな本当に多い。
先日、自分で仕事してる人に出会ったけど、知識が豊富で良い感じに今の社会や常識や価値観に疑問を持っていて、自分なりの答えを持っていた。
とても勉強になった。
人の考え方が様々で、『こういう見方もある』と、人と関わりあう中であちこちから飛んでくる考え方を、自分なりに一回落とし込んで、ジャッジして、整理出来る。
そんな人でいたいなぁと思う。
私が感じた思いや感情は、もう過去のものだ。
そこから何か感じられたならば、何かを得られたということ。
今後に活かして行けば良いし、それを恨んだり、いつまでも持っている必要もない。
私が会社の苦しみを話す時、ココトモで出会った人達は、思えば私のことを『偉い』と表現することはなかった。
それを思い出した時に、何とも言えない気持ちになった。
偉い、と言われて喜ぶ人だって沢山いる。
でもそれが重荷になるかも、本人が本当に望んでいること。
それを感じながら、その人を見ていきたいと、今後思う。
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