人生のハンドル
visibility16 edit2025.10.02

はじめに
こんにちは、あおいです。
季節の変わり目の今日この頃、みなさんいかがお過ごしでしょうか?
今日は、人生のハンドルを握るのは誰か?主人公は誰か?という話を私の体験談を交えてお話させていただこうと思いました。
自己紹介
名前
あおい
年齢
30代
性別
女性
住んでる場所
カナダのフランス語圏
地元
九州
仕事
元看護師で、今は介護士見習いみたいなことをしています。
趣味
写真、カメラ、お絵描き、音楽、語学(フランス語、英語、アラビア語)
生きるってどういうことだろう?
ここにいらっしゃるみなさんの多くは、なんらかの理由で”生きづらさ”を抱えていらっしゃる方が多いと思います。
理由は千差万別で、
親御さんとの関係、お友達との関係、ご自分の体調や特性、性についての悩みや将来のこと、
などさまざまです。
その根底にあるものは、多くが孤独や不安です。
では、なぜそう感じるのか。
そうそれは、”周りと違うから”というところが大きいのではないでしょうか。
例えば、あなたのお友達のAさんは週末家族とディズニーランドに行った。
でも、あなたのお父さんはお酒を飲んで酔って暴力を振るったり、仕事をしていなかったり、収入が少なくテーマパークなんて行けそうもない。
また、お母さんが病気がちで自分がきょうだいの世話や家事をしなくてはならないとか、お母さんは仕事が忙しくテーマパークに行く暇なんてない。
そして、Aさんとその他のあなたの友達がクラスで何か話している。
「わたし、今週末は家族とディズニーに行ったの。」
「僕は今度の休みに行って、ミラコスタに泊まるんだ」
あなたは、その会話に入りたいけど入って行けません。
そうして、心をどんどん閉ざしていく。
あくまで例ですが、そういったことが積み重なった経験から”生きづらさ”や”他の人とは違う””普通じゃない”といった疎外感が生まれるわけです。
今度は私の経験を例にしてお話しします。
私の父は会社員、母は専業主婦という、それこそごく普通の家庭に生まれました。
父は仕事が忙しく、週末しか家族で過ごす時間はなかったですが、週末はよく動物園とか公園とかに連れていってもらっていました。
母はお菓子作りが得意で、幼稚園から帰ったら母の手作りのおやつを食べていました。
幼少期はそれなりに幸せでしたが、転機が訪れます。
祖父の再婚です。
祖父は父が10代半ばの時に妻を亡くしており、そこからずっと独身でした。
6歳の頃に祖父が再婚し、父方のおばあちゃんができました。
このおばあちゃんが変わった人で、父の姉(叔母)と絶縁させたり、勝手に連れ子との二世帯住宅を建てたり、とにかく私たち家族を無視するようなことを平気でする人でした。
そんな義祖母に気に入られようとした父が豹変します。
それまで家族に手を上げたこともなかったのに、いきなり気に入らないことがあれば母を殴りはじめ、私にも少しでも気に入らないことがあるとタコ殴りにするようになりました。
母はそれに耐えかねず、何度も自殺未遂をしました。
私はそんな家族から早く逃れたいがために弱冠20歳で正看護師資格の取れる高等専門学校に死ぬ気で勉強して入りました。
しかし、高校3年生の時、世間体を気にする祖父と父から大学の医学部に進学するように言われました。
そこは殴られながらもなんとかごねて、看護師の資格を取ってから働きながら進学するとその場しのぎの約束をして納得を得ました。
鎖に繋がれた犬
父は世間体を気にする人で、母は殴られるので父には一切反論せず従う人でした。
看護師になってすぐ、父の仕事の都合で実家が遠方に転居したため、一人暮らしが始まりました。
そこで人生の転機が訪れます。
義祖母が年老いて余命幾許もない祖父の遺産を独り占めしたいがために、父と祖父の縁を切らせたのです。
それまでは殴られながら大学は実家から近い国立に行けと、無理やり受験勉強させられていました。
しかし、実家の引越しの時に暴力を受けていた母はついに父に言い返します。
「これまで通り、暴力を振るうならもうあなたにはついていかない。離婚する。二度と私を叩かないと誓えるならついて行く。」
父はこれまでのことを後悔するようなことを言い、母に暴力を振るわないことを誓ったそうです。
それから、進学の話はなくなり自由になりました。
しかし、自由になったはいいけどこれまで親の言うことだけを聞いて生きていかなればならなかった私はどうして良いかわかりませんでした。
人の顔色を伺い、人の目を気にするばかりで自分で全く考えず他人の思う通りにしか動けない自分がいました。
それこそ、文字通り「ずっと犬小屋に鎖で繋がれた飼い犬が、鎖がちぎれたにも関わらずそこから動かない」状態でした。
新しい依存先
就職して1年が経った頃、彼氏ができました。
”誰かに必要とされたい、愛されたい。愛されない自分に生きる価値はない”
と言う思いから彼に依存し、全て彼の言う通りに、思う通りにしました。
車を買いたいから借金しろと言われたら銀行から借金しました。
結婚資金を貯めるから俺名義の口座に貯金しろと言われたら貯金もしました。
奨学金の返済も頼まれたのでしました。
その他生活費も私が全て負担しました。
しかし、そんな都合のいい女が本当に愛されるはずもありません。
彼とは婚約しましたが、10歳も年下の女性と浮気していました。
別れ際にこう言われたのは今でも覚えています。
「お前はいい財布だったよ。お前の金しか愛せなかった。」
出会って気づいた。人生のハンドルを握ってるのは私。
そんなこんなで婚約破棄になり、ちょうど災害で職も住む場所も失った私は、実家に帰ることを決めました。
本当は嫌で仕方ありませんでしたが、他の選択肢はありませんでした。
実家に引っ越して1年後、また彼氏ができました。
今度は外国人の彼氏で、ワーキングホリデーで来日していました。
彼とデートするとき、いつも「お母さんに聞かなきゃ、、、」とか「門限があるから」とか言い訳をしてしまいました。
彼はもちろんドン引きしていました。
しかし、それで別れることはなくある日彼がこう言ったんです。
「君の人生だろ、君がコントロールするべきだ。俺と居たくないなら素直にそう言ってよ。」
彼に言われて気づきました。
自分の人生は自分のもの、他の誰のものでもない。
確かに、自分の人生が自分以外の人でめちゃくちゃになったなら、それはそのメチャクチャにした人のせいです。
でも、そんなことした人は人生を補償なんてしてやくれません。
じゃあその出来事の後、どう生きるか?
卑屈に生きても人生はやがて終わります。
楽しく幸せに生きても人生はやがて終わります。
じゃあ、思い通りにやってやろうじゃない。
人生めちゃくちゃにしたあいつらが悔しがるくらいに。
人生の責任者は私なら、なんでも自己責任でやってやる!
そこから彼には今までのこととか全部話しました。
他の恋人には隠して取り繕っていたこと全て。
彼は理解してくれました。
そして、これからの人生を何があっても一緒に生きたいと言ってくれました。
ついに握ったハンドル
外国人の彼と結婚することを両親に言いました。
もちろん、両親は大反対。
彼のことを詐欺師、ビザ目的、現地妻探してるだけ、、、
と散々詰り、当時24歳の娘を外出禁止にしようとしました。
「ガイジンと結婚なんて、日本人と結婚できないから色物に行ったと思われる。あのガイジンと会うなら家から出さない、仕事も辞めろ。」
そう言われました。
外には彼が待っていました。
もう限界でした。
私は私の人生を生きよう。
そして着の身着のまま駆け落ちしようと決めました。
どこまでも行こう、行きたいところに。
そうして、私たちは結婚しました。
婚約から1年とちょっと、結婚して半年、子供も生まれました。
お金はそんなになかったけど、幸せでした。
両親とは子供が生まれた時に和解しました。
母方の祖父母は10代前半で亡くなってしまったし、父方の祖父とはいい関係にはなれなかったから、せめて子供にはいいおじいちゃんといいおばあちゃんのと思い出を作って欲しいという思いからでした。
コロナ禍が始まり、夫は職を失いました。
私の給料で暮らせないことはないけど、将来を考えると不安でした。
なので、夫の母国に移住することにしました。
今、自分のあの時の選択についてこう思います。
今まで後悔したことはないし、これからもきっとない。
でも、もし後悔しても自分で決めたこと。
私は自分の人生を自分で選んだんだ。
おわりに
私もみなさんと同じように悩んだことがあります。
諦めたくなったことも、生まれたことを後悔したことだって数え切れないくらいあります。
ひょっとすると、あなたの悩みと比べたら小さいことかもしれません。
でも、私が伝えたかったのは
後悔しない人生なんてきっとない
でも、人に決められた道ばかり歩んだり、人の評価を気にしてばっかりで自分の人生が終わってしまうより、少しでも自分で決めた道を歩めたなら、あなたはきっと納得して人生を終われると思います。
悩めるあなたの、ちょっとした考え方の参考になればと思います。
謝辞
読んでいただき、ありがとうございます。
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