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温かいお言葉をありがとうございます!
事実を見ていないというのは、この投稿で言う私が見ていたアニメによって過去のイベントに行けなかったりしたということでしょうか?
確かにイベントの年月を調べて、それがちょうどアニメにハマってた年だとわかると勝手にイライラしてました…
単純に好みが変わっただけと自分で理解したいのですが、明らかに楽しそうなイベントだとどうしてもその後悔が出てきます。
早くハマっていればこのイベントに参加できたんだと。
それを考えない方が楽かもしれませんが、難しいです…
依存についてですが、確かに依存してたかもしれません。
ただ地元愛が強いのではなく、依存しちゃってると自分でも思っています。
おかげで休日になればどこかに行かないと落ち着けない感じです…
「共感できなさそうな」と言ったのは、一度このことを親に話しましたが、親は「早くハマればよかったところはわかるけど、なぜ好きだったものが嫌いになったのか、なぜそれらにハマったことに後悔するのかは理解できない」と言われました。
なので、この感覚は自分だけだとずっと思っていました。
後悔するというのは人間にあるものや、「早くハマればよかった」という感覚は誰にでもあるということはわかっていましたが、意外にも好みが変わって昔好きだったものが嫌になるというのはあるのですね!
引っ越しの投稿、なかなか回答来ないので難しい問題なのかもしれませんね…
解決まではいかなくても、温かいお言葉を貰えるだけで十分です!
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そう言って貰えてよかったです。
親御さんとのお話ですが、多くの人は理解と共感をごっちゃに捉えたりしていますし、頭で理解することは本当の理解ではないことに気づいていなかったりしています。ですから、人に理解できないと言われたとしても、その人はそう思うんだな程度に受け止めた方が無難かもしれないですね。
まあでも、親の言うことは何となく信じてしまいやすいですよね。子供は親の言うことを本能的に無条件に信じてしまう傾向にあるようですし。
事実を見ていないというお話を本当に理解するのは、頭での理解では不可能かもなと感じています。ですが、ああだったらこうだったらという、タラレバを見ているときは想像を見ていて事実を見ているわけではないという理屈自体は理解できるのではと思います。
考えないと楽かもというのはあるかもしれませんが、現状は考えてしまう条件が揃っているんだと思うので、どう思おうが考えてはしまうでしょう。ですから、そう考えたことを、『きっとそうに違いない』から、『そうかもしれないけどそうじゃないかもしれないな』とか、『本当にそうかな?』に和らげていけたら少しは楽かもしれませんね。
そして『きっとそうだ』も『そうじゃないかもしれない』も想像のことですよね。何を考えようがそれは事実ではありません。ただの考えです、そういった理屈を使いながら対処していきつつ、事実を見ていく力を育てていくと、悩まない程度の後悔や依存に収まってかもしれないですね。
まあ、そんな感じでね、いろいろと言いましたが、実際のところは理解や対処が難しいことでいっぱいだから、宗教的なことを信じてみたり、楽しいことに依存してみたりして、それなりに生きているのが人間なのかもしれませんね。
意見はそれぞれ違っても、根本的にはみんな似たようなものなんだと思います。ですから、みんな同じ人間だものと温かく接することが一番の薬なのかもしれませんね。
あゆねっこさんは自分自身に対して温かく接することができていますか? こういうところに相談できるときはいいですが、どうしても一人で対処せざるを得ない時も少なくないと思います。そういう時のためにも、普段から自分自身に対しても温かく接してあげる癖をつけておくのもいいかもなと思います。人は結構自分自身に対して無駄に厳しくなりがちだったりしますからね。結果的にですが、そういう癖が依存的な傾向を減らしていくかもしれません。
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理解と共感の違いについては私自身あまり日本語が得意ではないので、ごっちゃになってるかも知れません💧
私が言ったことが家族もネットの人でも理解や共感をしてもらえないことが多いので、この考え自分だけかもと思うことが多いです。
他の投稿見るとわかりますが、家族とのすれ違いが多いです…
家族の言うことを気にしないのが、一番だと思いますが、そこが難しいですね。
私自身悪い想像してしまうことが多いので、これが原因でこのような後悔が出てるかもしれません。
日常でもフードコートで食べ物を運んでる時にそれを落として他のお客さんにかかってしまうかも、横断歩道を渡るときに急に車が来てはねられるかもと想像すれば勝手に怖がっています。
「タラレバを見ているときは想像を見ていて事実を見ているわけではないという理屈自体は理解できるのでは」→確かにそうですね。これらは全て勝手な妄想で、事実ではないことは頭の中では理解できています。
今まで「早くハマっていればこのイベント行けたかも」と『きっとそうに違いない』という考えでいましたが、「早くハマっていればこのイベント行けたかな?」程度が楽かも知れませんね。
これも事実じゃなくても、これは一つの想像だと思い込めば少し悩みは軽くなるかも知れません。
この悩みは100%解決に持ってくることは難しいですが、その時はその時、今は今で違う、今はその時よりも楽しんでると考えるのが一番とは思っています。
内容が違ってもみんななんらか後悔や失敗してる人間だと思うことにします。
私自身に温かく接することができていますか?ということについてですが、今の自分よりも過去の自分に対して厳しくなりがちです。
やはり、過去にハマっていたものを思い出せばその時の自分を殴りたくなってしまいますから。
と言いましたが、過去も今も全て自分なので、自分自身に対して厳しいというのは正解なのかもしれません。
過去の自分に対しても温かく接することができれば、少しは軽くなるかも知れません。
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言葉はなかなか難しいですよね。コミュニケーションってお互いのことじゃないですか。だから、あゆねっこさんが言葉をどのように扱っているかということと同時に、相手が言葉をどう扱っているかも大きく関わってきますよね。
「理解できない」と言われたときに、相手が理解という言葉を共感という意味で使っていたりすることもよくあることだと思います。理解と共感は全く違うものなのにです。そんな感じで、人はみんな言葉を適当に自分なりに扱っていることが多いので、すれ違うことはよくあることなのだろうなと思います。
それでも、すれ違わない場合もありますよね。そういう場合は言葉の奥にあるその人の持つ思いに目を向けているからなのだと思います。お互いにそうであれば、すれ違いが少ないコミュニケーションになるのだろうなと思います。
家族との関わりですれ違うことが多ければとても大変ですよね。気にしないということも一つの方法だと思います。ですが、一緒に暮らしている以上、まったく気にしないというのも難しいですよね。気にしないようにはするけども、こちらが余裕がある時は相手の言葉も気にかけていく‥ぐらいに思っていればより心が楽かもしれませんね。
相手のことを理解できないということは、それだけ心に余裕がなかったり、心が歪んでいたりするものです。それはそれで大変でしょうから、何を言われたかという部分だけでなく、そういう相手の状態を気にかけてあげることも自分の心を楽にしてくれるかもしれません。
このことは、過去の自分や失敗する自分に対しても通ずるところがあるかもしれません。いろんなことに気づけなかった、そういう状態の過去の未熟な自分に対して、「あの時はこんなことにも気づけないような状態だったんだね 」とか、こんな失敗をしてしまうような状態だったんだね」とか、そういう感じで見つめてあげられたら少しは心が楽かもしれませんね。
今、新しいことを見つけてその時よりも楽しんでいられるのは、変化があったからですね。そして、今その様に楽しんでいられるのは、まだ未来の自分に変化していないからです。過去の自分が過去に楽しんでいられたのは、今の自分に変化していなかったからです。あなたが言うように、過去は過去でベストだし、今は今で、未来は未来でベストです。楽しいことも失敗することも、今そうなんだねって見つめてあげられたら心が楽かもしれないですね。
悪い想像をしてしまうのは、身の危険を恐れているからだと思います。そのこと自体は当然なことだと思いますが、そのことと失敗することがとても繋がっているように感じます。
失敗は失敗であって、悪い事でもダメなことでもないように思います。ですから、当然責められるようなことではないように思っています。ですが、失敗を悪い事、ダメなこと、責められて当たり前なことと認識していると、失敗することが責められたり罰を受けることのように感じて、つまり身の危険を感じて恐怖や不安が大きくなりやすくなるかもしれません。
責められたり罰を与えられたりすることがある世の中ですから、それを恐れてしまう気持ちは出てきやすいだろうなと思います。もう少し人が安心して過ごせるような世の中だったらいいですね。誰だって失敗するのですから。僕も毎日失敗の連続です。やりっぱなしだったり、やってなかったり、崩したりこぼしたり、間違ったり、忘れていたり、そんなことだらけです。
安心して過ごせる時間が多くなれば、悪い想像をしてしまうことも少なくなっていくように思います。失敗するのはダメじゃないっていう認識が自分にも周りの人にも広がっていくと、悪い想像をすることも世の中から少なくなっていくかもしれないですね。悪い想像をすることが少なくなれば、心は軽くなっていきますから、人はより明るく、そしてより優しくなっていくのだと思います。そうであれば、より安心して過ごせる世の中になっていくのではないかと思います。ですから、人間にとって、何をどのように認識するのかということがとても大切なのだろうなと思います。
それから、依存について少しだけ言うと、ハマっているということが依存しているということだったら、ハマっているということが必ずしも良いこととは言えませんよね。それはそれで楽しい気分を味わいながら過ごせているのですから悪いこととは言えないですが、それはある意味ドラッグのようなものとも言えるかもしれません。そんな感じで物事をいろんな角度で見てみると、いろんなことが見えてきて固い心が柔らかくなっていくかもしれません。
後はまあ、ちょっとした余談ですが、僕が後悔したときに使うちょっとしたテクニックを思い出したので紹介してみようと思います。それは、もしそうしていたら嫌な事が起きていたかもしれないと思うことです。例えば、あのお店で買ったらもっと安く買えたのにと後悔してしまった場合です。そういう時は、あのお店で買ったら通り道が変わるから帰りにうんこを踏んでしまったかもしれないと思うとか、不良品を掴んで余計な手間になってしまったかもしれないと思うとかです。
後悔することはマイナスでしかないので、とりあえずそのように良かった想像に悪かった想像をぶつけて後悔する気持ちを消すことがあります。後悔している時は、とても主観的でとても感情的な状態なので事実をあるがままに見ることができません。ですから、そういうテクニックを使って後悔する気持ちに対処することがあります。
あゆねっこさんも、もっと前に今好きなものに出会っていたら、感覚が追い付かず嫌いに感じたかもしれません。そうすると今でもハマることなく、今楽しめていることも楽しめなくなってしまっていたかもしれないですね。嫌いに感じずにハマっていたとしても、そのイベントに行けていたら途中で事故にあっていたかもしれません。
どちらがよかったのか、悪かったのかを分からなくする感じです。分からないのが事実ですよね。そうやって分かったつもりの妄想状態から、分からないという事実に自分を連れて行ってあげる感じです。分かるのは今のことだけ。そうやって今という事実に自分を連れて行ってあげる感じです。
とまあ、いろいろとまた話してしまいました。長くなって申し訳ありません。何をどうしようが、考えてしまうことは考えてしまうでしょうけど、少しでもあゆねっこさんが楽になったらいいなと思います。
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一番の言葉のすれ違いを感じたのはこの投稿にある「妹がゼリー欲しがってる。しかし、、、」という時です。
お互いに説明不足で何が言いたいのかわからない状況は大変です。
確かに心の余裕も必要ですね。
余裕があれば何が言いたいのかを考えることができますし、こちらが言いたいこともうまく整理できますから。
ほとんどその当時の自分が未熟なように書いていましたが、十年後の自分が今の自分が未熟に思えるかも知れませんね。
今ハマってるものは数年後になるとハマり続けてるとは限らないですし、もしかしたら嫌いになってるかも知れませんから。
今は楽しいと思ってますが、昔ハマっていたものもその当時はそれで楽しいと感じてました。
今までそんな下らないものを楽しいと言えるなんて幼稚な自分だねと思っていましたが、そっかその時はそれが楽しかったんだねとプラスに考えると楽になれるような気がしました。
世の中は失敗を責めるので、失敗=悪という考えがついてしまいますよね。
「失敗は成功のもと」ということわざをよく聞きますが、失敗を責めて人の成功や成長を妨げるような気がします。
失敗したら責めるのではなく、どうしたら次はうまくいくのかなどを楽しく(と言ったらおかしいですが)話し合える世の中になって欲しいと思っています。
学生の時に試験の点がよくなかったことや英検に落ちたことを家族に馬鹿にされたのは今でも腹が立ちます。
改善点を話してもどうせ無理と言われ逆に勉強するやる気を失いました。
これを厳しく躾けてると言う親がいるので恐ろしいと感じます。
厳しくするのと失敗を責めるのは違うと思っています。
引っ越しが不安と思うのは今住んでる場所に依存しちゃってるかも知れないですね。
引っ越す前にあれこれ行かなきゃとプレッシャーを感じちゃってるのもそれが原因かも知れません。
普通なら好きな場所から離れてもまた帰ってくるね程度に思ってるイメージです。
確かに早くハマっていればいいことばかりとは限らないですよね~
その時が中学生という若い年齢だったので、イベント見つけても必ず親がついてくるし、距離や交通費などで拒否されていたかも知れません。
今は働いて給料もあるので、行きたくなったら一人で行ってる感じですが、その当時は全て親が出すことになりますし、責任もほとんど親が持つことになりますから。
悪かった想像をするというのはいいかも知れませんね。
こう見えて好きなものはコロコロ変わっていく人なので、早めにハマっていたら今は違う物を既に好きになっていて、今手に入れることができている期間限定や地域限定の物が目に入ることはなかったと思います。
そう考えると少し楽になった気がします。
その当時の限定グッズでもその写真があれば、眺めるだけでも手に入れた気が少しでもするので、それでもいいやとも思えるようになってきました。
実物がもちろんいいですが、その時に手に入れることができたら今は失くしちゃってるかもと考えるようにします。
たくさん話してくださりありがとうございます。
違う角度で見たら楽になれるかも知れませんね。
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返信ありがとうございます。
あゆねっこさんのお返事を見て、この人は丁寧に説明すると、しっかりとその説明を受け取って、それを踏まえて自分でもしっかりとものを考えることができる人なんだなぁと感じました。
これだけの力があるのですから、これからも何かあったら、落ち着いてしっかりと物事を考えていけば大丈夫だと思いますよ。
説明するのもそれなりの力が必要です。今はあゆねっこさんの周りには、丁寧にしっかりと説明できる人がいないのだろうなと思います。
説明する力は、考える力とは別に物事をしっかりと見抜く力が必要です。前に話した想像ではなく事実を見る力です。考える力は、どこまで行っても想像を見ることから離れていません。
基本的に、世の中では考える力を育てることばかりをやっていて、物事を見抜く力は育てようとしていません。だから、大人であっても、物事を丁寧に説明できる人はとても少ないなと感じています。
だから、子供に何かを説明しようとしても上手くいかない大人がとても多いのだと思います。
だから、大人は大人で子育てに悩み、子供は子供で訳の分からない教育に悩み、困ったことになりがちなのだと思います。
物事を見抜く力をつけるのは、そう簡単なことではないかもしれません。それを教えてもらう機会も持ちづらいと思います。
ですから、とりあえず、大人も子供もいろいろあって大変なんだなと、それぞれに未熟な今を過ごしているんだなと理解してあげられたら、より楽に過ごしていけるかもしれませんね。
ゼリーの件は、あれではあゆねっこさんが可愛そうだったなと思いました。あゆねっこさんは丁寧に説明すれば分かる人なのだし、自分からあげようって思える優しい心も持っている人なのだしね。
未熟な大人の歪んだ教育の典型的な感じだなと思いました。
こういったことが世の中から減っていくには、考える力だけでなく、物事を見抜く力を持つ大人が増える必要があるなぁと感じます。
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私もしろすきーさんはとても話しやすい方だなとは思いました。
こんな感じに分かりやすく丁寧に説明してくれれば、モヤっとした気持ちは軽くなりますし、少し楽になります。
他の方の回答が悪いとは言いませんが、なんかそうじゃないんだよなという回答を貰ってモヤっとしたまま受付終了になることが多いと感じます。
といっても説明が難しいというのは私でも分かります。
私も何かを説明しようとすればどういうこと?と言われることが多いです。
私が書いた「共感できなさそうな文」というのはこのような意味も含まれています。
事実を見て説明するという能力?が欠けてるから、あいまいな文章になってしまうかも知れませんね。
大人は考えろばっかりで、丁寧に説明しようとしないので、他の視点から物事を見る機会がないのかも知れませんね。
まず丁寧に説明すること自体難しいので、なかなか難しい問題ですね…
年齢関係なく人間自体未熟という感じがしました。
この考えの方が確かに楽ですね。
ゼリーの件も一言説明をつけ足してくれればあげることができたのに、誰も言ってくれなかったので、もやもやしました。
妹のゼリーがついてないこと知っていてあげないとなれば私が怒られるというのは分かりますが、何も説明されなくて怒られるのは理不尽ですよね…
私自身も含めて自分の説明で満足する人が多いので、この説明だと伝わってないかもなど見抜く力が必要ですね。
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年齢関係なく人間自体未熟。そうなのだと思います。
ものごとを見る目が未熟だと、どうしても主観的で自己中心的な態度や言動になってしまいます。勘違いや思い込みがどうしても多くなります。いろんなことを勘違いして過ごすから、心が満たされない状態になりがちです。心が満たされない状態で過ごすから、何かにつけて自己満足を求めてしまい、自己中心的になりがちですし、現実的でないものを求めるようにもなっていきやすくなるでしょう。
そういう状態であればあるほど、その身に降りかかる出来事もそれに合わせたものになっていくように思います。そうであれば、余計に心は渇いていってしまいますし、落ち着いてものを考えられなくもなっていきます。そして、更なる勘違いや思い込みを増やしていって、偏った思考と満たされない心は大きくなっていくでしょう。
多くの人間はそういう状態で毎日を過ごしているのだから、どうしても余計な衝突や悩みを抱えてしまうんでしょうね。一つ解決したと思ったら、一つ問題を抱えてしまう。その未熟さゆえにです。
ですから、できることなら、ものごとを見る目を育てていけたらと思います。こればっかりは人には期待できないですから、周りの人がどうであれ自分がどうするのかしかないのかなと思います。育てるって言っても、考えることから見ることへと変えていくだけなんですけどね。これは僕自身にも言えることです。
ゼリーの件は大変でしたね。そうやって怒られるのも理不尽ですが、そもそも、あげないといけないことはないですからね。あげた方がいいということもないように思います。あげようがあげなかろうがどっちだっていいように思います。それに、あゆねっこさんが手にしていたゼリーは、あゆねっこさんに委ねられているものですからね。それを周りの人が命令してどうにかしようとすることは、とても失礼なことだと思います。あゆねっこさんのことを尊重できていないように思います。その点でも理不尽だなと感じます。
あげたほうがいいとか、あげないと意地悪だとか、察して当たり前だとか、そういうことも思い込みでしょう。~だと思うというだけのことです。実際にあゆねっこさんは意地悪であげなかったわけではなかったでしょう。~だと思うというのが多いのは周りの大人もそうですね。
物事を見る目が無いからそういうことにも気づけない。気づけないから人に対してそんな風に接してしまう。そんな風では気持ちよい人生にはならないかもしれませんし、そのように子供を育ててしまう。悪循環だなと思います。
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遅くなってすみません、忙しくて返信できなかったです…
自分も結構自己中心的になりがちなので、物事を見る目が未熟なのかも知れません。
確かにイベントの件や過去に戻りたいというのも自己満足のための妄想になりますね。
そして、現在もお出かけは近くではなく、遠くに行かないと満足しないようになってしまってます。
行って満足かと言われれば、もう一回行きたいとなっています。
楽しかったからもう一回行きたいという観光のリピート的な意味ではなく、行ったけどなんか満たされてないという感じです。
その気持ちの正体が自分が未熟だからかも知れませんね。
引っ越して悲しい気持ちにならないようにどうしたら一回行って満足できるのかと戦っています。
これに関しては私自身が成長しないといけないですね。
ゼリーの件も確かに元々自分のですからあげる義務がないですね。
兄弟姉妹の分がなかったらあげるべきという固定概念?に囚われてるからこのようなトラブルが起きたかも知れませんね。
ちゃんと説明しないのも理不尽ですが、あげるべきと命令するのも理不尽だと改めて思いました。
妹のメニューにもついてるだろうと考えた自分にも非はありますが、大人は大人で何かしら非はありますね。
周りはなんでも当たり前だと思ってるので、何かに気づくことは少ないだろうなと思いました。
まずは当たり前じゃないということに気づくべきですね。
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人生というものは、自分中心のストーリーでしょう。自分からどう見えるのかで成り立っているものでしょう。おぎゃあと生まれて自分を認識し、自分を中心とした視点から始まります。ですから、どうしても自己中心的になりがちなのだと思います。そこから始まるわけですから。
そんな感じで始まる人生ですが、何故かうまくいかないことがあり、その度に何でだろうな?と考えてみたりするのだと思います。その時に、いろんなことを見つめるきっかけがあれば、とりわけ自分自身を見つめるきっかけがあれば、それまでに気づかなかったことに気づいたり、ものごとを理解していく要素を得ることがあったりするのだと思います。そして見ようとすればするほど、見る力もついていくのだと思います。その力もまた、ものごとを理解していく一つの要素になりますね。
そのように、少しずつものごとを理解していく要素が溜まっていくと、人のこころは少しずつ育っていくのかなと思います。植物を育てる場合、同じ環境下で同じような栄養を与えても何故か育ちが違いますよね。そのように、人のこころもいつどのように育っていくのかは予測がつかないもののように感じています。
そのように、どうすれば満足できるようになるのかは計算できないものだと思います。ですが、そうなるための要素を得ることを続けていれば、いつかはそうなるのだろうなと思います。ですから、そうできなくても、いろいろなことに気づけなくても、温かく接してあげられたらなと思います。特に自分自身に対してね。それもまた、不満を増やさないことにも繋がりますしね。そんな感じで、少しずつでも成長していけたら、いずれは不満を感じにくくなっていくと思いますよ。不満も満足も感じなくなると味気ないかもしれませんので、悩みにならない程度に満足感を楽しんだり、不満を感じたりになれたらいいのかもしれないですね。
あげるべきだと決めつけて、それが当たり前になってしまうと、今度はもらうべきだということも当たり前になってきます。その場合、もらえなかったことに対して不満が出たり、悲しんだり責めたりすることにも繋がってきますよね。固定概念が一つあると、また一つ、そしてまた一つと、どんどん増えていってしまいます。それだけ不満も悲しみも争いも増えていきがちになります。おっしゃるように、悩みや問題を減らしていこうと思うのであれば、まずはそこにある当たり前が本当にそうなのかに気づく必要がありますね。
人間ですから気づけなくても仕方が無いと言えばそうですけどもね。ですが、人間だからこそ気づく可能性がありますし、どちらにしても人間だもの‥ですね。
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人は自分中心で生きたいでしょうね〜
その自分中心で同じ意見が集まってグループができるという認識です。
自分自身についてですが、「自分で気づく人」「言われてから気づく人」「言われても気づかない人」と分かれてるイメージです。
自分は「言われてから気づく人」というタイプですね〜
自分では普通だと思ってることが他からおかしいと言われることが多いですw
この出来事は自分で気づいて後悔してるという感じですね〜
その後悔も成長の一つという感じがしましたね。
次に活かすとかそういうものではないですがw
こういうことがあってから今でも自分の趣味は将来後悔しないのかと考えることはあります。
そうやって自分を見るようになりましたね〜
確かにどうしたら満足できるのかというのは誰も計算できないですね。
その行った場所で自分自身を休憩させれば満足感が増すかも知れないですね。
もらうべき、確かに当たり前になってましたね。
昔は妹が選んだものと逆のものじゃないと文句言われてました。
例えば妹がピンク選べば自分は青、妹がスカートを選べば自分はズボン、自分は割れてるクッキーや崩れてるプリンを選ばないといけなかったなどがありました。
それを数年続けていれば、妹がこのことを忘れたらしく、妹になぜ好きな色が青になったのか、なぜほとんどズボンを履くのか聞かれるようになりました。
親はこの事情を知ってたので、説明してくれました。
本当に当たり前って怖いですね。
こう考えると人間っておもしろですね〜
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そうですね。人間って何なんでしょうねw
今回は、自分で気づいた感じだったんですね。この場合、何を見て何に気づいたのかというところがポイントなのかなと思います。今回とは違い、誰かに何かを言われた場合、それは、その人の意見に気づいたということですよね。そして、今回の場合は、自分の意見に気づいたということになるのだと思います。
他人に何かを言われた場合、その人の意見と自分の意見の違いが悩みを生むことがありますね。他の意見があることに気づき、そしてそれが悩みの種になるパターンですね。そして、自分で気づいたという場合も同様に、それが悩みになる場合は、その時気づいた自分の意見に悩みます。
もしこれが、意見というものではなくて事実に気づいたということならば、そこに悩みは生まれません。そして、もしそれまでに悩みがあったとしたら、事実に気づいた時点でそれまであった悩みは無くなります。事実に気づくということは、そのようなことなのです。
そのように気づきというものは2種類あります。このことを知っている人は、とても少ないと感じています。何かに気づいたという場合、気づいたものが、~だと思うという感想なのか、そうではなくて事実なのかということを見抜く力があれば、悩みが続くことはとても少なくなるように感じています。
とまあ、ちょっと長めの余談でした。
なんとなく、あゆねっこさんの気持ちが軽くなったように感じています。もしそうだとしたら、とてもよかったなぁと思います。他の人からおかしいと言われることが多いと話していましたね。僕も昔からずっとそうでした。ずっとと言っても、昔の自分と今の自分ではその具合は随分違っていますけどね。周りからそう言われる者同士、ひょっとしたら、僕とあゆねっこさんは似たような感じなのかもしれないですね(笑)
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過去と現在を比べてどう変わったのかに気づいたという感じですね〜
ただの好みの変化ですがw
この後悔も自分でその当時の自分は何をしてたんだろうと考えて出てきたものです。
今まで考えすぎだったかも知れないですね〜
心が軽くなったのも終わったことだし考えてもどうしようもないと考えるようになったからだと思いますw
行きたかったという気持ちは残ってますが、行けないからどうしようもない、その代わりこれからのイベントを楽しもうという気持ちが強くなった感じがします。
今でもおかしいと言われること多いですw
考えなどは昔と違いますけどね。
どんなにおかしいと言われてもこれが自分だと思うようにしています!
確かにしろすきーさんとどこか似てるところあるかも知れないですね〜
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こんばんは。なんだかいい感じですね(^^)
考えても仕方が無いことは、考えても仕方がないですもんね。後悔は、考えても仕方が無いことを考える人にだけ生まれてくるものなので、それに気づいたあゆねっこさんは、ひょっとしたら、今後は後悔したくてもできない人になっちゃったかもしれませんね(笑)
おかしいかどうかは特に気にする必要はありませんが、あまりにもこれが自分だとこだわり過ぎると、人の意見に耳を傾けづらい性格になりがちなので、そこのところに少し心配がありますね。とは言え、そういうのも前向きなところとも言えるし、まあ、年上のお節介なのかもしれませんね(笑)
見抜いていくという観点から言いますと、これが自分だということも、これが自分だと思うだけのことでしかないですから、それはそれで事実ではなくて一つの意見でしかないんです。まあそれは、そういったことに興味が出てきたら目を向けてみてはと思います。
とりあえず、これからのイベントや、これからのいろんなあれこれを楽しんでいけそうでいいですね(^^)
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これから先後悔することもありそうですが、過ぎたことはどうしようもないという考えになりそうですねw
これが自分というのもありますが、人の意見に流されやすい人です。
自分の意見も言いますが、採用されたりはないですね~
他の人の意見に賛成派が集まったらそれに合わせます。
確かにこれが自分だと思うこともただの一つの意見ですね。
まだ引っ越しに対しての不安は正直ありますが、あまり過去を考えない方が少し不安は軽くなるかもしれませんね!
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そうですね。その方が不安や心配は軽くなるかもしれないですね。もし仮に、過去を考えるとしたら、自分にとっての未練というものよりも、相手やその土地に対しての感謝を思うと気持ちは辛いものだけではなくなるかもしれません。
あゆねっこさんがこれまで積み上げてきたものは、今どのように楽しんで過ごすのかという、今をどのように生きるのかということではなかったですか?
あなたが楽しい思いを感じたのは、いつでも今、その時の今。その時の今、目の前にあるものに触れて、とても楽しかったのではないですか?
楽しい思いはその時のもの、あなたが本当にこれまでに積み上げてきたものは、今を楽しく過ごす力です。その時、触れ合えたものと共に積み上げた力です。ですから過去を思う時は、未練ではなく感謝を思ってみてはと思います。そして、その力と共にまた今を、そして未来の今を、楽しんでいってはと思います。
あなたが本当に積み上げてきたものは、何も失われはしないんです。今を楽しく過ごす力と、感謝の対象を増やしただけです。あゆねっこさんの人生の彩りを、触れ合ってきたものと共に増やしてきたんです。
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確かに感謝の気持ちは重要ですね!
楽しませてくれてありがとうとは思っています。
積み上げてきたというものというのはほんとに楽しんできたからですね~
過去よりも何かを楽しんでるという感じがします。
好みの変化だけではなく、どう楽しむのかと考える機会は増えてますね。
正直その中学生の時は自分がなんなのかというのはわかってなかったです。
無趣味に近い状態でしたね。
今後悔してると言ってる好きだったものも周りに話せたかと思うとそうではなかったです。
本当にそれが自分なのかと考えていました。
それからゆるキャラなど本当に好きなものに出会えて、それが本当の自分と思えるようになってから、人生損してる、早くハマればよかったという後悔が出てしまいましたね。
本当に好きなものが増えて人生が充実してる感じがするので、感謝の対象が増えたというのは正解ですね。
視野が広がったという感じもしますし。
今楽しいと思えるのは昔よりも視野が広がったからかもしれませんね。
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なんとなく、どんどん視野が広がって、自分のことも過去のこともより見えるようになっていってる感じがありますね。
ご自身も『視野が広がったという感じもしますし。今楽しいと思えるのは昔よりも視野が広がったからかもしれませんね。』とおっしゃっているように、これまでも、知らず知らずにそのようにしてきたのだろうなと思います。
登山で言えば、あゆねっこさんは山頂へと向かっているような感じですかね。山頂へ向かっていけば、少しずつ高度は上がり、見える景色も広がってくる。
まあ、山頂に到達することだけが人生の目的ではないかもしれないですから、あゆねっこさんのように、あっちこっちでいろんなものを楽しみながら、進んでいけたらラッキーかもしれないですね。