過去は消せないけれど、人は変わることができる~百合の花~
visibility1,374 edit2016.07.26
私のプロフィールに書いてある通り、私が『セクマイ』になったきっかけは、祖母の「女の子らしくいなさい」という女の子の概念を植え付けられたことからの拒否反応で起こりました。
「どうして女の子は髪の毛を長くして、スカートを履かなくてはいけないの?」
「どうしてピンクや赤の可愛い恰好をしなければならないの?」
私は、祖母から離れた神奈川の実家で育ってきた影響で、母親の趣味を全面に受けて育ちました。
一方で、姉は祖母の近くで暮らしていた影響と、初孫だったということもあり、幼い頃から、祖母好みの可愛らしい格好で育ちました。幼い頃からそうだったから、違和感はあまりなかったのでしょう、今でも姉のほうが女性らしく、凛としています。
対象的な姉妹。性格も服装も考え方も恐らく違っています。
似ているのは顔立ちや、両親から受け継いだ性格のみ。姉は少しきつく私に当たることもありますが、基本的には妹想いの優しい姉です。
私が感受性が強く、心が弱いのに対して、姉は弱いところを決して見せようとはせず、強くふるまって生きています。
姉の弱さに気づいたのは最近のことで、長女としても、私のためにも、強く生きることを決めていたことを知りました。そこで、自分ともしかしたら、似ていたのかも。本質的には同じなのかも、と気づいたのは本当に最近のこと。
皮肉にも、祖母の死から知ったことでした。
苛まれてきた日々~幼少期から思春期までの話~
根は明るくて、人と話すのが本当に好きだった私。
祖父母も両親も、私の笑顔が好き、と言ってくれました。
私も両親、特に母が大好きで、いつもくっついていたくらいでしたし、その日に幼稚園や学校であったことを全部話すほど、お母さん大好きっ子であり、良い子でいようとつとめていました。
撫でてもらえるのが嬉しくて。喜ぶ顔が見たくて。学校でも外でも家でもいい子だねって自慢の娘や孫であることが、私の目標であり、喜びでした。
今思えば、その時から私の心の中は崩れ始めていたのかもしれません。
その一方で、祖母のいる大阪に行くことが苦痛に感じていました。
はじめのうちは無邪気に行っていたのですが、そのたびに、言われる言葉一つ一つが忘れられない傷となり、思春期を迎える頃には、反抗こそしなかったものの、苦手意識がありました。
祖母は幼いうちに戦争で両親をなくしています。きょうだいはいましたが、その経験を私に話したかったのでしょう。
「お母さんに甘えてばかりじゃダメよ。おばあちゃんなんて甘えたくて甘えられずにここまできたんだから」
もともと、食が細かった私。母も姉も兄もそこまで食事を多くとる人ではありませんでした。その中でも群を抜いて食べない私に対して、
「おばあちゃんが子供のころは食べたくても食べられなかったんだから、もっと食べなさい。本当にここの子は食が細くて…」
自己否定だけなら、まだ良かったのです。
甘えていたのは確かだし、食が細かったのも事実。大阪の家に行くと、いっぱい食べなきゃいけない強迫観念から余計に食べられなくなっていたのも自分のせいでしかなかった。全部、自分のせいなら良かったんです。
ですが、祖母の言葉の裏にはいつも、こういう意識がありました。
「母親が甘やかしている。母親に似て、食事をここの子たちはあまり食べない。母親の教育が悪いのではないか。母親に似て、葉音は女の子らしくならない…」
子供ながらに感じ取った言葉の裏。祖母は父親の母親。父親側の人間です。教育なんて、両親がともにするもの。それなのに、なぜ母親ばかりが責められなきゃいけないの?私のせいで大好きな母親が傷つけられる…そのことから反抗したい気持ちといい子でいたい気持ち、プレッシャーが生まれ、祖母に苦手意識を持っていました。
祖母はあまり裏表がない人でしたので、余計にストレートに言葉を言ってしまう傾向にありました。みんなを平等に扱おうとしているのもわかっていました。
でも、子供の私にはそれが理解できなかったし、皆平等なんて無理だと分かっていました。
兄は男の子だから構われなかったこと。姉が初孫だし、一番思い通りにいくから、お人形さんみたいに可愛がられていたこと、私は母親に似たただの末っ子に過ぎないこと。
好いていてくれたのは分かっていました。でも、それ以上に許せない部分も多く、なんで?と疑問ばかりが募りました。
いつからか、大阪に行くことが嫌になり、純粋に楽しめなくなりました。周りの友達からは、大阪に行けるなんて素敵☆なんて言われていましたが、私にとっては、楽しい行事ではなかった。ただのご機嫌取りのために行っているだけ。顔を見れば喜んでくれる。そして、プレッシャーの中で食事をする、ただそれだけ。それだけのことだったんです。
大阪に行けばちやほやされるのはやはり姉。可愛がられるのは姉。
母親はただの召使?それについていく私は祖母にとって疎ましい存在?
兄はなかったことにされたみたいに、時を過ごしていて。後から母親から聞いた話では、兄は自分だけ疎外されていたように感じていて、祖母が一緒に寝ようと誘ったとき、断ったことがあったそうです。その理由は、「だっておばあちゃんは僕のこと、嫌いだから」。
兄が傷ついていたのを知ったのはだいぶ後だったので、自分や母親だけに疎外感を感じていて、苛まれているように感じました。
「自分はいる意味があるのかな?」漠然とした想い、でもそれが本当の気持ちで、すごく悲しかったのです。
想いが爆発した高校から大学時代~『セクマイ』と「うつ病」の狭間で
高校は自己否定と勉強の日々
自己否定と共に芽生えた『セクマイ』の意識。
そういえば、好きになる子はみんな女の子だし、格好も男の子のようにしていたし、髪の毛も短かった。
でも、『セクマイ』になりたかったのか?果たして、その根本的な意味はなんなのか?そう考えたときに、『セクマイ』は自己否定を塗り重ねられていくうちに発生して、根本には「どんな私でも認めて欲しい」という「女の子らしくでもなく、男の子らしくでもなく、自分として認められたい。
「私は私」だと、胸を張って言いたい。その抵抗感から、『セクマイ』の感情が加速したように思えます。
今では、女の子大好き!な自分で良いし、『セクマイ』だって良くない??って普通に思えますが、がんじがらめになったときに人は過剰に抵抗し、過敏になりやすいもの。
どうせ、分かってくれないんでしょ、ほっといてよ、的な気持ちが混ざっていました。
だから、男性とお付き合いしても上手くいかない、そして本命の女の子には拒否される。の、繰り返し。まさに負のループでしかなくて。
『セクマイ』である自分を傷つけて、自己否定感を募らせたかったのかもしれません。
中学生の頃、制服のスカートが似合わないからと小学校低学年から伸ばしていた髪を、高校生の時にばっさりと切った。
その時、友達に驚かれたのを今でも覚えています。
だって、元々「髪の毛が長い=女の子」としての意識だったから(今は男性でも女性でも長い人もいるし、長さは気にしていない)、本当は短い方が好きな髪を、伸ばしていただけのこと。
私は突発的にやるから、驚かれる。その反応を見て、やっぱり自分は異常なんだろうな、って、自己否定をしたかった。とにかく、自分を傷つけてしまいたかった。
もうこの時点でうつ病の症状が明らかにあるのですが、「死にたい」とは思うけど、実際に死ぬことはできない。なぜなら、大好きな母親を悲しませたくなかったから。
それと同じ理由で、自傷行為もできなかった。傷を見て、母親が苦しんだり、泣いたり、ほかの人に責められる姿、特に祖母に責められる姿を見たくなかった。
だから、外から見える傷は何も作りたくなくて、ひたすら自分を否定し続けていました。自分の心に傷がついていくのを分かっていながら、そうせずにはいられなかった。
学校も通いたくなかったけど、とにかく母親を悲しませたり、祖母や父親にそのことが原因で母親が責められるのが嫌だった。
だから、学校もきちんと通ったし、学年トップをとるくらい、勉強も頑張った。それしか、自分を誇示する方法を知らなかった。良い点数をとれば、両親も祖父母も喜んでくれることを知っていたから、胃を痛めながら、時には吐きながら学校に通った毎日。
休んだのは一度だけ。友達もいなかったわけじゃないけれど、学校という空間がそもそも好きじゃなくて、男子・女子とかで区別されるのも好きじゃなくて。
でも出席番号でも、身体測定でも、体育でも、男子・女子わけられる。区別をされる。学年二位をとったとき、「女子のくせに生意気だ」と男子から言われたこともあります。
その時はショックもあったけれど、とにかく傷つけて欲しかったから、何を言われても、勉強だけはやめなかった。時には、黒板を使って、勉強を教えたりもした。人に頼られることは、自分を肯定されているようで、「私を私として見てくれているようで」嬉しかったから。
だから、勉強だけが、高校の時の私のすべてだった。
うつ病発覚!すべてを投げ出したかった大学時代
大学一年生の時もひたすら勉強をして過ごしていました。友達が欲しくないわけではなかったけれど、理解されないと思ったから、あえて人との関わりは避けていました。
可愛い女の子を見てしまうことはあったけれど…異端だと思われるのが怖かった。浮くことがとにかく怖いと思い、人目を気にしながら、ひたすら真面目に講義を受けていました。
自然と友達になってくれた人はいるけれど、やっぱりどこか距離を置いていたからか、親密な付き合いにはなりづらかった。何よりも、自分の考えを露呈することで、勉強すらもままならなくなることは自分にとっても、家族にとってもマイナスになると考えていたから。
感情よりも先に理性が動いていたような気がします。
高校の時よりも楽だったのは、一人でいることができたこと。スカートを履かなくて済むようになったこと。私服なんて何でも良かった。自分が選んだ適当な服を着ても、ここでは怒られないことを知っていたから、男の子のような格好に自然と戻っていました。
大学一年生では無事、単位も良い成績で取得。特待生だったので学費免除。怒られる要素なんてどこにもない、「普通で良い子」な私。
それでも、違和感は拭えなくて、ひたすら葛藤しました。
そして、訪れた大学二年生の夏、うつ病を発症したことで、目の前が真っ暗になりました。
うつ病の怠さから食事も満足にとれない、文章が頭に入ってこない、とにかく怠くて眠くて、死にたくて。の繰り返し。
病院にかかってからは本当に更に酷くて、今度は薬の副作用で授業中眠たくて仕方がなかった。朝起きるのが億劫だし、食事をしても吐くだけだったから、気合で授業を受けていたけれど、その反動が休日に出たり、学校に長時間いることや、電車の中で立っていることすらままならなくて、ほぼ気力だけで乗り切って、体重も筋肉も落ちて、30㌔をきる手前までいきました。そうなると、体に力が入らないし、薬の影響ももともとあるのに、そのときに採決まであると、腕がじんじんしてまともにペンを握ることができなかった。
ギリギリの状態で、学校に行っていた私を母親は本当に心配してくれていた。
父親も心配はしてくれていたし、本で「うつ病」について調べたりはしてくれていたけど、理解は全然足りなくて。
そして、父親の自分の親を想っての態度。
「おじいちゃんとおばあちゃんに言うと心配するからうつ病であることを言わないように」
私の心が砕けて、何かを失った気がした。今まで頑張ってきたもの全てがばかばかしく思えて、本当に生きている意味が分からなかった。
なんで私は今生きているの?誰のため?何のために?なんで自分は生まれてきたんだろう。
大好きな母親の否定になることも思っていた。
「こんな自分なら、最初から生まれたくなかった。産んでほしくなかった」
母親にはもちろん言っていないけれど…思っていたのは事実。
日に日に痩せていく私。元気もないし、生きる気力すらない。
それでも訪れる、毎年恒例の大阪訪問。
祖母から浴びせられる言葉。
「ちゃんと食べているの?」「無理しすぎなんじゃないの?」
誰のせいにもしたくなかった。だけど、その言葉を聞いて、本当につらかった。なんで、私はこんなことを言われなきゃいけないんだろう、って。
そのまま単位は落とすことはなかったけど、授業に集中できないこともあり、だいぶ成績はおち、特待生から外されて、また自己否定。お金も結局かけてまで、なんで生きているのか、大学まで通わせてもらっているのか、分からなかった。
大学三年生になり、何かが切れたように、今度は逆に人とかかわりを持つようになった。もう自棄になっていた部分があるのだと思う。
可愛いと思った女の子には声をかけるし、友達になるし、遊んだり、コミュニケーションをとるようになった。
「うつ病」なのに、「明るい私」。躁うつ病じゃない。だから、人と関わった後はどうせその日にあったことでへこんだり、落ち込んだりするのも分かっていたけれど、歯止めがきかなかった。
狂った心を戻すことが自分ではできなかった。
その間、女の子とも付き合ったし、告白されたりもした。だけど、満たされなくて。寂しい心は浮き彫りになるばかりで。
そして、忘れもしない大学三年生の夏。誕生日の次の日。全てが嫌になり、自暴自棄になった。だけど、死ぬ勇気はなかった。
だから、「自分が自分であること」を証明したくて、坊主にして家に帰った。「ただいま」って帰った瞬間、母親は泣き出し、姉は手紙をくれて、兄は不在、意外にも父親が慰めてくれた。
その後、訪れた大阪訪問で、祖母に頭を見せた瞬間、ここでは書けないような言葉をかけられた。もういっそ、全部壊してほしかった。否定したいなら、否定するだけしてほしかった。だけど、祖母はあくまで「私の存在」は否定しなかった。
「私の存在」をその時に否定されたなら、どんなに良かったことか。帰ってきて数日後、母親が我慢していたけれど、泣き崩れた。その時に知った事実。祖母が母親にかけた言葉。
「母親の愛が足りなかった」「仕事なんて辞めて子供を見てやればこんなことにはならなかった」
全部、全部、母親のせい。
でもね、おばあちゃん。私、「うつ病」なんだよ。「うつ病」で『セクマイ』なんだよ。だからこんな行動に出たんだよ。
言えれば良かった。「うつ病」になったって伝えれば良かった。
でも、伝えられなかった。それは、おばあちゃんの息子の選択だよ?
貴方が最愛の息子、つまり私の父親が決めたことだよ?
それなのに、どうして母親のせいにするの?分かってくれなかったのは母親じゃない。父親なんだよ。どうして父親のせいにしないの?
頭をぐるぐると回って、父親と祖母を避けるようになった。
私は何があっても、母親の味方でいようと決めていた。
父親の実家である、大阪の祖父母の家には行きたくなかった。自然とさけるようになっていたし、何よりも母親をこれ以上傷つけたくなかった。
あのとき、坊主にした髪はもう伸びたし、母親を傷つけてしまったから、ウィッグをつけて大学に通っていた。でも、時には外していた。
周りにどう思われようと構わなかった。やせ細って丸坊主の女の子が大学にいる。異様な光景。狂った人間、そんな風に思われたかった。母親が傷つけられた分、自分も傷つきたかった。それしか、私にはできなかった。
大学でも話題の一人だったことも知っている。でも、私は坊主にしたことをいまだに後悔はしていない。何よりも似合っていた自覚はあるから(笑)
だけど、母親のためにもうしないと誓った。
うつ病は治らなかったけど、状態は回復してまた特待生になり、大学を無事に卒業。表彰台にまであがるようになりました。
でも、卒業式にはスーツで参加しました。袴は絶対に来たくなかった。もう、無理はしたくなかったから。
やっぱり家族の縁は切れない~祖母の余命二年を経験して~
『セクマイ』の私が結婚を決めたたった一つの理由を読めばわかるように、『セクマイ』で、女の子が好きだった私もようやく男性と恋に落ち、結婚することを決めました。
結婚をそのタイミングで決めた理由については書いていませんでしたが、その年の初めに母方の祖父を亡くして、初めて思ったことがあったからです。
「みんなが生きている間に花嫁姿を見せたい」と。
『セクマイ』で女の子っぽくなくて、「うつ病」にもなって、両親にも心配や迷惑ばかりかけてきた私。母親から離れたくなかったけれど、やっぱり母親を安心させるためにも、私は私が幸せになれる道を選ぶ、そう心に決めました。
祖父が亡くなったとき、私もそうですが、母親が泣き続けているのを見て、親孝行ってなんだろうって考えたとき、単純な私は、生涯のパートナーを見せることが何よりも親孝行であり、祖父母孝行になると思いました。
だからと言って、誰かじゃダメで旦那がいてこそ、そう思えたのは事実ですが、当初の予定では結婚式も何もやる気はありませんでした。
女の子らしい格好の自分、ましてやウェディングドレスに憧れを抱くタイプではなかったし、できれば着ることなく、結婚式も挙げることなく、入籍だけで済ませようと思っていました。
でも、母方の祖父が亡くなり、祖父は従姉妹の結婚式を見ることができました。ひ孫は残念ながら見ることができずに亡くなりましたが…母方の祖母はひ孫を抱くことができたんです。その祖母の顔を見て、思いました。
ひ孫の顔は見せられなくても、せめて結婚式のドレス姿を見せてあげたい、と。
元々、子供を産むつもりはありませんでした。旦那が働けない以上、私は働いて旦那を一生養うつもりでいたし、何よりも「子供を産む=女性」で、それは生殖機能上仕方がないことなのだけれど、絶対にそれだけはしたくなくて、子供は作らないと旦那と話し合いもして、決めていたくらい、決心はかたく、揺るがないものでした。
まして、三人きょうだいの末っ子。私が無理して、子供を作る、のもなんか違う。そう思ったというのも若干、あります。きっと、大阪の祖母は姉のウェディング姿を見たかっただろうし、子供も見たかったと思う。でも、それができそうになかったから、私には相手もいたし、近いうちに入籍はして一緒に住もうという話になっていたので、結婚式を挙げることを決めました。
結婚式の主役は花嫁。とよく言いますが、私にとって、結婚式の主役は何よりも祖父母、家族、親戚、であり、友人や職場の人も含めた、「私、幸せだよ。安心してね。ありがとう」という感謝のための意味合いが強かったのです。
肌が弱くて普通の化粧品は使えない。不器用すぎて髪の毛も巻けない。可愛い服は着たくない。でも、結婚式なら専門家がいるし、全部任せられる。
一番、女の子らしい私を見せることができる。
その一心でした。
元々、イベント好き、サプライズ大好きな私は結婚式のプランを考えるのはとても楽しかったです。こういう演出をしたら喜んでくれるだろう、とか、このドレスを着たら、私に似合わないことはないし、何よりも喜んでくれるだろうな、とか。
みんなに直筆でのプレゼントもしたりして、準備は早急に進めていた。結婚式の準備期間はほぼ二か月半。怒涛の打ち合わせの日々。
どうして、その日程にしたのかは、値段がその方が安くなる、ということもあったけど、何よりも自分の誕生日に近い日程にしたかったから、です。
産んでくれてありがとう、私は幸せだし、これからも幸せになるよ。って伝えたかった。
しかも、私の誕生日は夏。
大好きなひまわりの花、ガーベラ、をふんだんに使うことができたから。
そして、前のブログでも少し書きましたが、私の本名でもある、「百合」の花を使いたかった。
何よりも私の名前を愛してくれていた、祖父母、家族に感謝を伝えたかった。私はこの名前がずっと嫌いだったのだけれど、その名前を好きだと言ってくれる人がいる。
自己否定ばかり重ねてきたけれど、人から認められることは何よりも自己肯定につながって、百合の花をどうしても使いたくて、ブーケにも使いました。
音楽は私の大好きな歌手の曲。旦那も好きだと言ってくれたし、何よりも私そのものを形成してくれた歌手の歌だったから、等身大の私でいたかったんです。そのわがままを許してくれた旦那にも感謝ですが、何よりも感謝を伝えたくて、結婚式の準備をしていました。
結婚式の招待状も送り終わり、準備も整ってきた、二週間前。ドラマのような話だけれど、大阪の祖母が胆管がんになり、顔が黄色くなり、余命を宣告されました。
「二年目のお正月は迎えられない」
そう言われた祖母。そして、何よりも女性であることを選び、きれいに着飾ってきた祖母。
そんな祖母は体調が良くないのは本当、だけれども、何よりも黄色くなった顔で、結婚式に出ること、人前に出ることを拒み、「結婚式に行けない。ごめんね」って連絡をしてきました。
余命宣告自体もショックでした。でも、一番見せたかった相手に結婚式を見せることができない、花嫁姿を見せることができないことを何よりも悔やみました。
私がもう少し早くしていれば…祖母の病気発覚がもう少し遅ければ…なんて、非現実的なことばかり考えて、逃避していた。
でも、祖母らしい。とも思いました。何よりも人前に出るときには気を使っていた祖母。髪の毛は白髪が出てくる前にはきちんと染めていたし、化粧もしっかりしていたし、場面に合わせてつける小物も違っていたし、服装も変えていました。
祖母は祖母。本当に女性らしく最期までいることを望んだ祖母。
花嫁姿を直接見せることができなかったけれど、「旦那の写真は良い。私単体の花嫁姿の写真を大きく引き伸ばして飾りたい」、そう父親にわがままを言うのも祖母らしくて何だか私は笑ってしまいました。
私にはないものを沢山持っていた祖母。最期まで、私の写真を見える位置に飾っていた祖母。
今年、迎えられないと言われていた二年目の正月を迎えました。でも、状態は良いわけではなくて。
余命宣告をされてから、父親は大阪に単身で行っていた。私も介護職だということもあり、5月くらいから歩行が不安定になったり、食事をとれなかったりする祖母の介護のために大阪を何度も行き来しました。
介護用品も選んだし、その時そのときに応じたプランも考えた。歩行が安定しないときは手引きでトイレまで連れて行ったり、お風呂に入れない祖母の体を拭いたり、髪の毛を洗ったり、食事の介助もしました。
できることはした、と言い切れるわけではないし、後悔もないわけではないけれど、祖母は私が介護をするたびに、顔を見るたびに、ありがとうって言いました。
私は、ずっと拒否していた女の子らしい恰好で、祖母に会いに行きました。これは強制されたわけではなくて、祖母が望んでいることをしてあげたかった。そうじゃないと、自分が壊れてしまいそうだった、という部分もある。
先月から入院して、徐々に弱っていく祖母を見ることが本当につらかった。でも、意識はわりとはっきりしていて、「前髪が伸びている」とか、「そのイヤリング可愛い」とか言ってくる祖母が本当に祖母らしくて、嬉しい半面、泣けてきた。
介護職、ということもあったけど、もう長くはないと悟っていたから。
7月になり、どんどん顔を見に行くのが辛くなる中、できる限り病院に顔を出すようにはしていた。関東と関西の往復。遠すぎるわけではない、でも近くは決してない。
しかも、祖母はもうその時には眠っている時間が多く、まともに話ができる時間は本当に数十分。見ていて辛くなる点滴の跡。やせ細った体。
もうどうすることもできなかった。
祖母が亡くなる当日、母親と私が病院に行ったとき、祖母は目をぱっちりと開けていた。もう声は出なくて、でも必死に何かを伝えようとしていて、私の手を握っていた。
前は強かった祖母の手の力の弱さに本当に泣きたくなった。
私は、予期していた。今日が山場なんじゃないか、と。
でも、お医者さんの話では、「今日どうとかなるわけではなく、徐々に衰退していく感じになる。もって1週間か2週間だろう」と。その言葉を信じて、母親と私はその日は関東に戻ることを急きょ決め、新幹線に乗った。
母親も胸騒ぎはしていたのだと思う。祖父が亡くなったときも、祖父は母親に早く帰れと言った。その言葉を信じて、新幹線に乗ったら、祖父が危篤だという連絡。そこから引き返したけど、もう遅くて、母親は祖父の最期を見ることができなかった。たぶん、祖父は見せたくなかったのだと思う。祖父の場合は、祖母と叔母(母親の姉)が看取ることができたけど、母親は今もそれを悔やんでいることを知っている。
新幹線に乗り、関東に近づいた来たころに一報。
「祖母が亡くなった」。
祖母が私が病院を出るときに何かを話そうとしていた。「ゆっくりでいいから、教えて?」と祖母の唇からも読み取れるように口元を見ていた。
ふり絞って、最期に出た言葉が、「ゆ…」
それが、本当に本当に祖母が発した、最期の言葉となりました。
過去は消せない、でも変化した心
祖母の葬儀はかねてからの祖母の意向を尊重して、家族葬でした。
だから、スケジュールも本当にあっという間で、次の日にはお通夜、その次の日には告別式でした。
泣かない、と心に決めていた私。
祖父のとき、私が泣きすぎて、姉が泣くことができなかったから。
今度は、私が支える番だと思っていた。
だから、親戚にも気を使って色々話したり、飲み物を持っていたり、できる限りのことはした、つもり。でも、その行動も、自分の心を明るくしようと無理して紛らわせていただけ。
みんな、それを見抜いていた。特に、母親は私が無理していることを分かっていた。だから、最期に祖母の顔を見て、お花を入れていくとき、私が泣いた後は、母親も泣きながらでも、ずっとそばにいてくれた。
お花は季節柄もあってか、「百合の花」。最後に祖母が呼ぼうとした名前。
私はこの名前を、この花を大事に思おうと心に決めました。
母親も祖母に沢山傷つけられてきた。
私もトラウマになるほど、傷つく言葉を吐かれてきた。
だから、母親を傷つける祖母を許すことはできない、そう思っていた。
でも、祖母の介護をして、祖母に尽くしたのは、やっぱり私にとって、祖母は大切で、私を愛してくれた一人だとどこかで分かっていたし、私も祖母のことが本当は大好きだったんだと、今さらになって思います。
過去は確かに消せないし、受けた傷は今でも残っています。
でも、私は祖母に大切なことを教わりました。
『過去は消せないけれど、人は変わることができる』と。
私は、祖母のためにも、母親のためにも、その他私を大切に思ってくれている人のためにも、そして何より、自分のためにも、生きていくことを決めました。
これを読んでくださっている貴方も、私と生きてくれますか?
一緒に生きてくれたら、私はそれだけで十分です。
乱文、長文となりましたが、読んでくれた皆様に感謝です。
葉音(本名:友里)
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