私がリストカットをやめれたストーリー
visibility3,971 edit2018.08.27
皆さん、こんばんは🌙*.。
今年は異常気象ですが、皆さんお元気でしょうか?
私は少し体調を崩していますが、なんとか生きています。
今日は、『私がリストカットを辞めれたストーリー』について書きたいと思います。
私がリストカットを始めたきっかけ
私が、リストカットを始めたのは、17歳の時でした。お母さんにもお父さんにも愛されていないと思い、とても淋しくて、その淋しさを満たすために切り始めたのがきっかけです。
その後、音楽の短大に進学し、初めて人生で挫折をあじわいました。その時に、風族で働いたりと、荒れた学生生活を過ごしていました。
大学は、無事に卒業しました。
でも、やがて、ODをするようになり、親が薬もカッターもカミソリも隠したら、今度は包丁や、爪切り、ありとあらゆるものを探し出して、自称行為をするようになりました。
病院に、包丁を持って行ったこともあります。
※これは銃刀法違反なので、皆さま絶対にマネしないように。
それで、病院に、毎日点滴に通っていました。その点滴は、してもらうと死にたくなくなるのですが、1日しか効果がありませんでした。
短大卒業後、両親は共働きで、家にいなくて、私は無職だったので、昼間は私が一人になるので、お母さんが心配して、おばあちゃんが毎日家に来ていました。
でも、私はおばあちゃんのことが嫌いでした。
なので、運命のあの日、来ないでって言いました。
運命の2006年9月11日
私は、近所のマンションまで歩いて行って、飛び降り自殺をしました。
当時20歳でした。
飛び降りた瞬間、めちゃくちゃ痛くて、私は「いたい」と言いました。幸い、すぐにおじさんが見つけてくれて、子どもに見えたのか、「子どもが飛び降りた」って聞こえました。「いたいなぁ」って声をかけてくれました。
そこから、意識がなく、救急車のなかで、ずっと「死にたいけんこのままにしといて」って言っていたそうです。
そして、警察も病院に来て、両親に返してくれたのは、私の血まみれの服と、私が履いていたスリッパ。
多発性外傷、骨盤からの出血がひどく、出血性ショック状態でしたが、ICUで、死ぬか生きるかを2週間さまよい、なんとか一命を取り留めましたが、脊髄損傷で車いすに。
入院中は、毎日整形の先生と精神科の先生が来てくれました。
最初に精神科の先生に会った時、私は「リストカットしたら気持ちいいんよ〜」と言ったそうです。そしたら精神科の先生が、顔を真っ赤にして、「ほんなことして気持ちいい人はおらん」って言ったそうです。
リハビリを含めて、約7ヶ月の入院を経て、家に戻りました。
家に帰ったら、前とは違う、幸せな生活が始まると思っていた‥
けど、違うかった‥
過去の、繰り返しだった‥
私は、また、死にたくなった。
怪我をして、入院していた時の先生が、かかりつけの病院の先生を紹介してくれていた。
その先生と、水曜日に会って、とりあえず土曜日まで生きる約束をした。
だんだんと、約束の期間が長くなって行って、現在に至る。
リストカット、自称行為については、入院中に先生が、私と信頼関係を、築いてくれた。
入院した時、私が死にたい死にたいと言っていたので、看護師さんは、私を保護室に入れると言った。
けど、先生は、私を信頼すると言って、保護室に入れなかった。
けど、私は何回か失敗した。
ビンを割ってリストカットをしようとしたり、ブラジャーのワイヤーで、窓の鍵をギコギコして、窓を開けて脱走しようとしたり、消毒液とジュースを混ぜて飲もうとしたりした。
※皆さま、絶対にマネしないように!
それでも先生は、私を信じて、先生も、約束を守って、私のところに話を聞きに来てくれた。
私はそれに答えようと思った。
以来、私は自傷行為はしていない。
現在の私。
今も、苦しくなると、自傷行為をしたくなることもある。死にたくなることもある。警察を、呼んでしまって、覆面パトカーで、警察に病院に連れて行ってもらったこともあった。
けれどそれでも、この呼吸が続く限り、生き抜かなければ、いや、生きたい‥今を、生きるのだ。
みな♡
- ココトモメンバーたちと交流しよう♪
-
ココトモメンバーたちと交流するための『メンバーのお部屋』掲示板ができました。気になるメンバーと気軽にお話することができます。ぜひ色んなメンバーのお部屋に遊びに行ってみてください♪
メンバーのお部屋はこちら