「自分」がわからない人のために

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近況報告

こんばんは。わしゅーです。みなさま、いかがお過ごしでしょうか。

北京冬季オリンピックを見ていると、しばしば20年以上前の、長野オリンピックの映像が入ってきて、懐かしい気持ちになります。比較的マイナーな競技で日本人がメダルを取ると、その競技に一挙に注目が集まったりして、やっぱりオリンピックというのは、人々の記憶に残るものなのだと実感しますね。

「自分」て何?

さて、みなさんは、「自分」て何のことか分かりますか?

当たり前すぎて「バカにしているのか!」と言われそうですが、意外と、なんなのか、ちゃんと答えられなくて困った経験が、だれしもあるはずです。

その一番わかりやすい例が、以下のような質問でしょう。

↓↓ちょっと意識高い系の人がしがちな質問

  • 「自分」はどうしたいと思っているの?自分の人生でしょ?
  • 「自分」のやりたいことを見つけようよ。自分で決めないと!
  • 「自分」らしさを発揮して、頑張ろう!

すくなくとも、わしゅーは、こういう質問をされると非常に困っていました。

↓↓わしゅーの感じ方

  • そもそも「自分」て何?
  • 別に、やりたいことなんかないし、、
  • どうすればいいか、あなたが教えてよ

こんな感じで、ずっとずっと違和感がありました。

「自分」を発明したのは誰か

この疑問が解けたのは、その後、いろいろな哲学の本を読んでいるときに、「自分」というものは、ある人の「発明品」である、という、衝撃的な事実を知ったときでした。

「自分」を「発明」??いったい、どういうことでしょうか。

先に答えを言ってしまうと、「自分」というものは、16世紀のフランスの哲学者、数学者である、ルネ=デカルトという人が、考えだしたものです。

デカルトの発明

ルネ=デカルト(1596~1650)

デカルトのもっとも有名な言葉は

「我、思う、ゆえに我あり」

というものです。この「思う我」こそが、デカルトが発明した「自分」です。

この言葉はどういう意味か。デカルトは、本の知識や、目にうつるもの、ありとあらゆるものを「疑ってみる」ことにしました。皆が当たり前に本当だと思っているものを「嘘じゃないか?」と考えたのです。

思索の末、デカルトは、『今、こうして、全てを疑っている「自分」、これだけは、間違いなく存在している』と気付きます。

『どんなに疑っても、「自分」は間違いなくここにいる。だから、自分と対話しよう。そして、自分が間違いないと思ったものは、信じよう』と考えたわけです。

デカルトの革命

さて、ここまで読んで、

『は?なにを言ってるの?デカルトとか関係なくて、いつの時代にも「自分」はいたでしょ?』

と思った方もいるでしょう。

しかし、デカルト以前には、デカルトが考えたような「自分」は存在しなかったのです。別の言い方をすると、「自分ならどうする?」などと問われることは、なかったのです。

主体と客体

英語にsubject という言葉があります。これは通常、「主語」と訳されます。「私は、Aさんを、助ける」というときの「私」が主語(subject)ですね。つまり、主語とは、なにかをする主体ということです。

これをsubjectiveとすると、「主観的」という意味になります。主観とは、「自分から見たものの見方」ということです。つまり、主語、主体は「自分」である、というものの見方が、ここには表れています。

英語のobject は、「対象」と訳されます。「私は、Aさんを、助ける」でいうと「Aさん」が対象(object)です。対象とは、なにかをされる人、客体ということです。

これを、objectiveとすると「客観的」という意味になります。客観とは、他人から見てどうか、ということです。つまり、対象は、客体であって、「自分ではない他人」である、という意識が、ここに表れています。

デカルトは何を変えたのか

しかし、デカルト以前は、これがまったく逆でした。主観的なものの見方を示す言葉は、objectiveのほうでした。客観的なもののほうを、subjectiveと言っていたのです。

つまり、「自分」というものは、主語・主体(subject)ではなく、対象・客体(object)のほうだった。もっといえば、「自分」は、主語=なにかをする主体にはならなかった、ということです。

簡単に言えば、「自分」「私」は、ずっと「○○は、私を、どうする」という、受動的な存在だったのです。この○○は、では誰なのか?それは、神様だったり、王様だったりしました。

自分でなにかを考えて、主体的に決めていく存在として「自分」を位置づけたのは、デカルトが最初なのです。これは「デカルト革命」と言われるくらい、大変な考え方の転換でした。

デカルト以後、人間は「自分」に悩みはじめた

デカルトは16世紀の哲学者ですから、「自分」というものが発明されてから、まだ500年くらいしか経っていません。人間の文明の歴史は、1万年~5000年くらいありますから、人間が「自分」というもので悩みはじめたのは、ほんとうに最近のことです。

そう考えると、まだ「自分」がよくわからなくて悩む人がいても、まったくおかしいことではありません。まだ500年も経っていないのですから。何億人もいる人間が、いっぺんに、いままでと全く違う考え方に染まる、なんてことのほうが変です。

むしろ「自分には考えなんてものはない。自分にどうしてほしいかなんて、他の誰かに決めてほしい」という、デカルト以前の考え方も、別にあってもいいんじゃないか、という気すらしてきます。

しかし、どうも数としては、デカルト派の人ほうが優勢みたいです。これが常識だと思って、なんの悪びれもなく「自分はどうしたいの?」と聞いてくる。それで困惑する人のことも、もうすこし考えてほしいものです。

「自分」がわからなくても、気に病むことはない

問題なのは、そうやって「自分はどうしたい?」と聞かれているうちに、だんだん不安になってきて「自分ってなんだろう。。」と悩みはじめ、精神を病むところまでいってしまう人がいる、ということです。

デカルトの発明は、あくまでもデカルト自身が「自分というものを主体におくと、私は納得できた」と思ったいうだけのことですから、それが不得意でも、別に気に病むことはないはずです。人間には得意、不得意があるのですから。むしろ不得意な人は、得意な人に、助けてもらって、一緒に考えてもらうほうが、よほど健全です。

ココトモは、みんなが友達として一緒に考えていく場です。得意・不得意をわかったうえで、おたがいに補いあえば、もっと生きやすくなると思います。

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コメント一覧

全1件
  1. schedule2022.12.19

    000000059447

    すごく面白いですね
    自分がないと牛や馬のようにきまりきったレールを何も感じないで生きる
    職業も結婚する人もみんな何もかも決まっててそれが当たり前でなんの疑問も思わないと苦しまない。
    自分があると色々選べて幸せなようで何でも自分で決めてそれに責任をとるから不安になる。自分が何が好きなのかもよく分からなくなることもしばしば

    どちらにしても大変だと思う
    自分という概念がまだ歴史が浅いから自分がよくわかんなくてもいいんだよ、っていうふうに取りました。
    自分の中には色んな自分がいることも許していきたいですね。私はこれだって決めつけないで。
    馬鹿みたいに真面目すぎる自分もあれば、この面ではかなり適当だったり。
    自分でなんだろうってのは質問が大きすぎるから、あまり考えない方がいいかもしれません。
    自分は何をしている時気分がいいのかとか、どんなことを気にしやすいのかとか、答えやすい質問にすると楽かも知れませんね。

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