「自分」がわからない人のために
edit2022.02.18 1,490
近況報告
こんばんは。わしゅーです。みなさま、いかがお過ごしでしょうか。
北京冬季オリンピックを見ていると、しばしば20年以上前の、長野オリンピックの映像が入ってきて、懐かしい気持ちになります。比較的マイナーな競技で日本人がメダルを取ると、その競技に一挙に注目が集まったりして、やっぱりオリンピックというのは、人々の記憶に残るものなのだと実感しますね。
「自分」て何?
さて、みなさんは、「自分」て何のことか分かりますか?
当たり前すぎて「バカにしているのか!」と言われそうですが、意外と、なんなのか、ちゃんと答えられなくて困った経験が、だれしもあるはずです。
その一番わかりやすい例が、以下のような質問でしょう。
↓↓ちょっと意識高い系の人がしがちな質問
- 「自分」はどうしたいと思っているの?自分の人生でしょ?
- 「自分」のやりたいことを見つけようよ。自分で決めないと!
- 「自分」らしさを発揮して、頑張ろう!
すくなくとも、わしゅーは、こういう質問をされると非常に困っていました。
↓↓わしゅーの感じ方
- そもそも「自分」て何?
- 別に、やりたいことなんかないし、、
- どうすればいいか、あなたが教えてよ
こんな感じで、ずっとずっと違和感がありました。
「自分」を発明したのは誰か
この疑問が解けたのは、その後、いろいろな哲学の本を読んでいるときに、「自分」というものは、ある人の「発明品」である、という、衝撃的な事実を知ったときでした。
「自分」を「発明」??いったい、どういうことでしょうか。
先に答えを言ってしまうと、「自分」というものは、16世紀のフランスの哲学者、数学者である、ルネ=デカルトという人が、考えだしたものです。
デカルトの発明
ルネ=デカルト(1596~1650)
デカルトのもっとも有名な言葉は
「我、思う、ゆえに我あり」
というものです。この「思う我」こそが、デカルトが発明した「自分」です。
この言葉はどういう意味か。デカルトは、本の知識や、目にうつるもの、ありとあらゆるものを「疑ってみる」ことにしました。皆が当たり前に本当だと思っているものを「嘘じゃないか?」と考えたのです。
思索の末、デカルトは、『今、こうして、全てを疑っている「自分」、これだけは、間違いなく存在している』と気付きます。
『どんなに疑っても、「自分」は間違いなくここにいる。だから、自分と対話しよう。そして、自分が間違いないと思ったものは、信じよう』と考えたわけです。
デカルトの革命
さて、ここまで読んで、
『は?なにを言ってるの?デカルトとか関係なくて、いつの時代にも「自分」はいたでしょ?』
と思った方もいるでしょう。
しかし、デカルト以前には、デカルトが考えたような「自分」は存在しなかったのです。別の言い方をすると、「自分ならどうする?」などと問われることは、なかったのです。
主体と客体
英語にsubject という言葉があります。これは通常、「主語」と訳されます。「私は、Aさんを、助ける」というときの「私」が主語(subject)ですね。つまり、主語とは、なにかをする主体ということです。
これをsubjectiveとすると、「主観的」という意味になります。主観とは、「自分から見たものの見方」ということです。つまり、主語、主体は「自分」である、というものの見方が、ここには表れています。
英語のobject は、「対象」と訳されます。「私は、Aさんを、助ける」でいうと「Aさん」が対象(object)です。対象とは、なにかをされる人、客体ということです。
これを、objectiveとすると「客観的」という意味になります。客観とは、他人から見てどうか、ということです。つまり、対象は、客体であって、「自分ではない他人」である、という意識が、ここに表れています。
デカルトは何を変えたのか
しかし、デカルト以前は、これがまったく逆でした。主観的なものの見方を示す言葉は、objectiveのほうでした。客観的なもののほうを、subjectiveと言っていたのです。
つまり、「自分」というものは、主語・主体(subject)ではなく、対象・客体(object)のほうだった。もっといえば、「自分」は、主語=なにかをする主体にはならなかった、ということです。
簡単に言えば、「自分」「私」は、ずっと「○○は、私を、どうする」という、受動的な存在だったのです。この○○は、では誰なのか?それは、神様だったり、王様だったりしました。
自分でなにかを考えて、主体的に決めていく存在として「自分」を位置づけたのは、デカルトが最初なのです。これは「デカルト革命」と言われるくらい、大変な考え方の転換でした。
デカルト以後、人間は「自分」に悩みはじめた
デカルトは16世紀の哲学者ですから、「自分」というものが発明されてから、まだ500年くらいしか経っていません。人間の文明の歴史は、1万年~5000年くらいありますから、人間が「自分」というもので悩みはじめたのは、ほんとうに最近のことです。
そう考えると、まだ「自分」がよくわからなくて悩む人がいても、まったくおかしいことではありません。まだ500年も経っていないのですから。何億人もいる人間が、いっぺんに、いままでと全く違う考え方に染まる、なんてことのほうが変です。
むしろ「自分には考えなんてものはない。自分にどうしてほしいかなんて、他の誰かに決めてほしい」という、デカルト以前の考え方も、別にあってもいいんじゃないか、という気すらしてきます。
しかし、どうも数としては、デカルト派の人ほうが優勢みたいです。これが常識だと思って、なんの悪びれもなく「自分はどうしたいの?」と聞いてくる。それで困惑する人のことも、もうすこし考えてほしいものです。
「自分」がわからなくても、気に病むことはない
問題なのは、そうやって「自分はどうしたい?」と聞かれているうちに、だんだん不安になってきて「自分ってなんだろう。。」と悩みはじめ、精神を病むところまでいってしまう人がいる、ということです。
デカルトの発明は、あくまでもデカルト自身が「自分というものを主体におくと、私は納得できた」と思ったいうだけのことですから、それが不得意でも、別に気に病むことはないはずです。人間には得意、不得意があるのですから。むしろ不得意な人は、得意な人に、助けてもらって、一緒に考えてもらうほうが、よほど健全です。
ココトモは、みんなが友達として一緒に考えていく場です。得意・不得意をわかったうえで、おたがいに補いあえば、もっと生きやすくなると思います。
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