いったい何が「幸せ」なのか?

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近況報告

こんばんは、わしゅーです。

たくさんのご相談を受けていると、つい、「自分はこのことをどう思うか」という方に寄っていってしまって、ご相談されている方の、目には見えない心情を、忘れてしまうことがあります。反省しきりです。

思い返せば、自分も悩んでいたときは、どうしようもない不安とか、ストレスとか、ぐるぐるする頭の中とか、そういう辛いものを抱えて、それでも何とか言葉を紡ぎだしていたはずなんです。。そういう目に見えないものに寄り添えなかったら、ご相談させていただいている意味がないな、、と、あらためて思う次第です。

「幸せ」ってなんだろう

さて、我々人間は、特に目的もなくこの世に生まれてきて、なんとなく生きているわけです。しかし、「なんとなく」で何十年も生きていくのは、それなりに大変です。

小説家の中島敦は、デビュー作である『山月記』の中で、登場人物にこんなことを言わせています。

人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短い

そんな、あまりにも長い人生ですから、人間は、せっかく生きているなら「幸せ」になりたいと思うわけですね。

幸せの定義

そもそも「幸せ」とは何でしょうか。Google Scholarで検索してみました。そうすると、熊野による以下の論文が見つかりました。

熊野道子. “日本人における幸せへの 3 志向性── 快楽・意味・没頭志向性──.” 心理学研究 81.6 (2011): 619-624.

幸せには3つの方向性があるということです。一つ一つ見てみましょう。

快楽追求

幸せとは、「快楽」を得ることである、ということです。分かりやすいですね。気持ちのいいことがずっと続いたら、確かにこんな幸せなことはないでしょう。快楽の反対は「苦痛」ですね。苦痛のない人生は、これも確かに幸せそうです。そうすると、幸せとは「快楽を最大化し、苦痛を最小化する」ことだといえそうです。

意味追求

人生は、ただ生きていくにはあまりにも長い。そうすると、「人生の意味がほしい」「この世界をよりよいものにしたい」という気持ちになります。そう思える活動を見つけて、それに全力投球している人を見ると、たしかに「幸せそうだなぁ」と感じますね。つまり、幸せとは「善く生きる」ということではないか。これも、あっていそうですね。

没頭追求

なにかに没頭していて、他の心配事はなにも頭に入ってこない。そんな状態になったとしたら、たしかに悩むことなどなさそうです。悩みというものは、「自分の力ではどうにもならない何かに、執着している」という状態ですから、そういう悩みがなくなれば、たしかに幸せそうですね。つまり、幸せとは、「執着しない」ことだと言える。これも、その通りだと思います。

①快楽を最大化し、苦痛を最小化する

快楽追求というと、何となく、快楽におぼれる自堕落な人間を想像してしまいますが、これを徹底的にシンプルに考えた哲学者がいました。ジェレミー=ベンサム(1748~1832)です。

彼は「最大多数の最大幸福」という言葉で、望ましい社会とは、社会全員の幸福を足し合わせて、それがもっとも大きくなる社会のことである、と主張し、それは「功利主義」と呼ばれています。

ジェレミー=ベンサム(1748~1832)

菅直人・元総理大臣は、2010年の記者会見で「最小不幸社会をつくる」との抱負を述べました。この考え方は、功利主義をちょうど反対にしたようなイメージですが、発想は同じといえます。「苦痛=不幸を最小化すれば、人は幸せになる」という考え方が根底にあります。

功利主義のメリットは、「快楽が増えるか、苦痛が減るか」というシンプルな軸で考えればよいので、わかりやすく行動しやすいことです。「楽しいことを積極的にして、ツラいことからは逃げる」を続けていれば、幸せになれるというわけです。

②善く生きる

「善く生きる」ということを言い換えると「道徳に従って正しく生きる」ということになります。これこそが人間の行動原理でなければならない、という思想は、ずっと昔から哲学者たちが考えつづけてきたことです。

古くはギリシャの哲学者ソクラテスは、

ただ生きるということではなく善く生きることこそ最も大切にしなければならない ー 『クリトン』

という意味のことを語ったと言われています。

また、万学の祖アリストテレスは、

最高善は究極の目的だ。究極ということの定義は「常にそれ自身として望ましく、決して他のもののゆえに望ましくあることのないようなもの」である。この条件を満たすと考えられるのは幸福である。 ー 『ニコマコス倫理学』

とまで言っている。人間の究極目的は、最高の善であり、それは幸福である、というわけです。

アリストテレス(BC384~BC322)

正しいこと、善いこと、それをずっと続けていたら幸せになれる」。道徳的に正しいことは何か、しっかり理解できれば、幸せになれるというわけです。

③執着しない

「執着」ということについて、考えてきたのは「仏教」です。

仏教では、人間には108の煩悩があると考えます。煩悩とは、心身を乱し、悩ませるもの。執着と言いかえることもできます。人の苦の原因は煩悩であり、これを克服することによって、最終的に涅槃という、最高の幸福に至ると考えます。

除夜の鐘を108回鳴らすのは、この煩悩を消すためだと言われています。「不必要な執着を消していくことによって幸福になる」という、引き算の発想といえるかもしれません。

とくに、煩悩のなかでも大きなものとして「三毒」があり、それは以下のものだそうです。

  1. 必要以上にむさぼり求めること
  2. 怒り、憎しみ、恨みの心
  3. 無知で理性を知らないこと

仏教は、それを実現する具体的な方法として「サティ」なるものを実践することを勧めます。これは日本語では「念」もしくは「気づき」、英語では「マインドフルネス」と呼ばれています。

この概念は、ビジネスの現場にも浸透しています。しかし、「念」というと宗教色が強くなるため、「気づきを得る」などと言葉を変えて使われるようです。

釈迦(BC624?565?~BC544?486?)

後悔しないために

さて、「幸せ」ということについて、3つのアプローチを見てきました。

もちろん、普通の人間は、どれか1つに絞るということはないと思います。おそらく多くの人は、幸せを求めていくとき、「気持ちのこだわりを整理し、なにが自分にとって良いことかを考えて、正しい道を進むよう努力していく」という、なんとなく3つをミックスしたような形で、ふだんの人生を過ごしているのではないでしょうか。

しかし、「幸せには3つのアプローチがある」ということを知っておけば、自分はどれを重視するのか、逆に見落としているものはないのか、ということを、自分で気付くことができるかもしれません。分かっていれば、あとで後悔することを減らすことができます。

「自分の人生には、何かが足りない」と思ったら、3つのアプローチを思い出してみてください。

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コメント一覧

全2件
  1. schedule2022.12.19

    000000059447

    快楽追求している時は、アロママッサージをしている時です、本当に至福です。
    あと、あたたかい飲み物を飲んでいる時とか。柔らかい毛布に包まれている時とか。

    善いもの正しいものは定義が曖昧で意味が大きすぎるのですが、誰かに感謝できる時は幸せです。

    「頭が思考でぐるぐる」する時には何かに没頭できて忘れられたらどんなにいいかと思います。楽器が弾ける人が羨ましいです。
    執着を手放すことにとても興味があります。なかなか難しいけれど、、
    執着って、かなりこびりついていると思います。それをひとまず脇に置いといて、無心で取り組める何かがあればなあ、とふと思ったりしました。
    考える材料になる文章を、ありがとうございます。

  2. schedule2022.02.25

    退会したユーザー

    わしゅーさん、こんにちは!
    幸せってなんだろうと自分もよく考えています。目には見えなくて人の心の中にあるものでしかも十人十色。人によって幸せの定義は違うと思いますが、「快楽追及」が自分には当てはまると感じました。苦痛と思うことは避けて、自分にとって気持ちのいいことをする。つらいことは自分にとってストレスと感じるので避けています。どうしても向き合わなければならないときは少しでも楽にできるかを工夫して物事を考えます。でも時々自分にとってこれは幸せなのかどうかわからなくなることもあります。自分にとっては永遠のテーマですね。
    幸せとは何か?改めて考えさせてくれたわしゅーさんのブログに感謝!!!

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