いったい何が「幸せ」なのか?
visibility1,883 edit2022.02.25

近況報告
こんばんは、わしゅーです。
たくさんのご相談を受けていると、つい、「自分はこのことをどう思うか」という方に寄っていってしまって、ご相談されている方の、目には見えない心情を、忘れてしまうことがあります。反省しきりです。
思い返せば、自分も悩んでいたときは、どうしようもない不安とか、ストレスとか、ぐるぐるする頭の中とか、そういう辛いものを抱えて、それでも何とか言葉を紡ぎだしていたはずなんです。。そういう目に見えないものに寄り添えなかったら、ご相談させていただいている意味がないな、、と、あらためて思う次第です。
「幸せ」ってなんだろう
さて、我々人間は、特に目的もなくこの世に生まれてきて、なんとなく生きているわけです。しかし、「なんとなく」で何十年も生きていくのは、それなりに大変です。
小説家の中島敦は、デビュー作である『山月記』の中で、登場人物にこんなことを言わせています。
人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短い
そんな、あまりにも長い人生ですから、人間は、せっかく生きているなら「幸せ」になりたいと思うわけですね。
幸せの定義
そもそも「幸せ」とは何でしょうか。Google Scholarで検索してみました。そうすると、熊野による以下の論文が見つかりました。
熊野道子. “日本人における幸せへの 3 志向性── 快楽・意味・没頭志向性──.” 心理学研究 81.6 (2011): 619-624.
幸せには3つの方向性があるということです。一つ一つ見てみましょう。
快楽追求
幸せとは、「快楽」を得ることである、ということです。分かりやすいですね。気持ちのいいことがずっと続いたら、確かにこんな幸せなことはないでしょう。快楽の反対は「苦痛」ですね。苦痛のない人生は、これも確かに幸せそうです。そうすると、幸せとは「快楽を最大化し、苦痛を最小化する」ことだといえそうです。
意味追求
人生は、ただ生きていくにはあまりにも長い。そうすると、「人生の意味がほしい」「この世界をよりよいものにしたい」という気持ちになります。そう思える活動を見つけて、それに全力投球している人を見ると、たしかに「幸せそうだなぁ」と感じますね。つまり、幸せとは「善く生きる」ということではないか。これも、あっていそうですね。
没頭追求
なにかに没頭していて、他の心配事はなにも頭に入ってこない。そんな状態になったとしたら、たしかに悩むことなどなさそうです。悩みというものは、「自分の力ではどうにもならない何かに、執着している」という状態ですから、そういう悩みがなくなれば、たしかに幸せそうですね。つまり、幸せとは、「執着しない」ことだと言える。これも、その通りだと思います。
①快楽を最大化し、苦痛を最小化する
快楽追求というと、何となく、快楽におぼれる自堕落な人間を想像してしまいますが、これを徹底的にシンプルに考えた哲学者がいました。ジェレミー=ベンサム(1748~1832)です。
彼は「最大多数の最大幸福」という言葉で、望ましい社会とは、社会全員の幸福を足し合わせて、それがもっとも大きくなる社会のことである、と主張し、それは「功利主義」と呼ばれています。
ジェレミー=ベンサム(1748~1832)
菅直人・元総理大臣は、2010年の記者会見で「最小不幸社会をつくる」との抱負を述べました。この考え方は、功利主義をちょうど反対にしたようなイメージですが、発想は同じといえます。「苦痛=不幸を最小化すれば、人は幸せになる」という考え方が根底にあります。
功利主義のメリットは、「快楽が増えるか、苦痛が減るか」というシンプルな軸で考えればよいので、わかりやすく行動しやすいことです。「楽しいことを積極的にして、ツラいことからは逃げる」を続けていれば、幸せになれるというわけです。
②善く生きる
「善く生きる」ということを言い換えると「道徳に従って正しく生きる」ということになります。これこそが人間の行動原理でなければならない、という思想は、ずっと昔から哲学者たちが考えつづけてきたことです。
古くはギリシャの哲学者ソクラテスは、
ただ生きるということではなく、善く生きることこそ最も大切にしなければならない ー 『クリトン』
という意味のことを語ったと言われています。
また、万学の祖アリストテレスは、
最高善は究極の目的だ。究極ということの定義は「常にそれ自身として望ましく、決して他のもののゆえに望ましくあることのないようなもの」である。この条件を満たすと考えられるのは幸福である。 ー 『ニコマコス倫理学』
とまで言っている。人間の究極目的は、最高の善であり、それは幸福である、というわけです。
アリストテレス(BC384~BC322)
「正しいこと、善いこと、それをずっと続けていたら幸せになれる」。道徳的に正しいことは何か、しっかり理解できれば、幸せになれるというわけです。
③執着しない
「執着」ということについて、考えてきたのは「仏教」です。
仏教では、人間には108の煩悩があると考えます。煩悩とは、心身を乱し、悩ませるもの。執着と言いかえることもできます。人の苦の原因は煩悩であり、これを克服することによって、最終的に涅槃という、最高の幸福に至ると考えます。
除夜の鐘を108回鳴らすのは、この煩悩を消すためだと言われています。「不必要な執着を消していくことによって幸福になる」という、引き算の発想といえるかもしれません。
とくに、煩悩のなかでも大きなものとして「三毒」があり、それは以下のものだそうです。
- 必要以上にむさぼり求めること
- 怒り、憎しみ、恨みの心
- 無知で理性を知らないこと
仏教は、それを実現する具体的な方法として「サティ」なるものを実践することを勧めます。これは日本語では「念」もしくは「気づき」、英語では「マインドフルネス」と呼ばれています。
この概念は、ビジネスの現場にも浸透しています。しかし、「念」というと宗教色が強くなるため、「気づきを得る」などと言葉を変えて使われるようです。
釈迦(BC624?565?~BC544?486?)
後悔しないために
さて、「幸せ」ということについて、3つのアプローチを見てきました。
もちろん、普通の人間は、どれか1つに絞るということはないと思います。おそらく多くの人は、幸せを求めていくとき、「気持ちのこだわりを整理し、なにが自分にとって良いことかを考えて、正しい道を進むよう努力していく」という、なんとなく3つをミックスしたような形で、ふだんの人生を過ごしているのではないでしょうか。
しかし、「幸せには3つのアプローチがある」ということを知っておけば、自分はどれを重視するのか、逆に見落としているものはないのか、ということを、自分で気付くことができるかもしれません。分かっていれば、あとで後悔することを減らすことができます。
「自分の人生には、何かが足りない」と思ったら、3つのアプローチを思い出してみてください。
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