寂しさにさよならした日②

満身創痍で心身共にヘトヘト気味の恭子です いかがおすごしでしょうか

前回の更新から すっかり2か月以上たってしまいまして
気忙しい中ながらも まとめるに至りました 遅筆ですみません

今回長いかなあ もしかしたら やや重いかなあ という内容ですが
何か飲み飲み適当に 読み流していただけたら幸いであります

またまた身近に感じてほしい哲学も 織り交ぜて書き進んでゆきます

よかったら おひとついかが あなたなりの哲学

実に妙なお誘いですが ここぞの場面でスイッチが入る そんな
自分だけに効く言葉お守りともいうか 哲学はそんな用い方もします

正念場みたいな場面 心折れそうな場面で 後ろ盾になるような言葉を
自分で作ってしまおう というご提案だったりします

単純なパターンとしてはメタファ(暗喩・隠喩)することなのですが

事象の本質をとらえるのに 別の事象を用いて 多くのイメージを
喚起させることを指します もう少し別な言い方をしますと

説明困難なモノゴトを 身近なものに例えてとらえるのです
基本形はこんな感じ

 「△△は○○である、・・・・・・・・」

ちなみに ・・・ の部分に 発語者個人の思いが表現されたりします
映画・ドラマにはこんな感じのセリフ 実によく出てきます

どこかで聞いたことある 例を2つほどご紹介

「人生は旅である、・・・・・・・・・」
「人は旅人である、・・・・・・・・・」

個人的に 哲学がなんとも面白いな~ って思うのは
これまでの経験により意味の奥行がまったく違ってくるとこかも

と ここで 哲学好きでロマンチストな男性が
やらかしてしまいそうな失敗例も一つご紹介

(旅好き)男性:「人生は旅だね 僕と一緒にずっと旅してくれないかな」
(旅したことない)女性:「わあホント?嬉しい いつ?どこへいく?」

男性:「いやその そうじゃなく・・・結婚してほしいというか・・僕と」
女性:「!!!・・・遠回しすぎでしょ!もう一回普通に言ってよ!」

愛の告白とプロポーズは真っ向表現の方が一度で済むかもね。。 という
どうでもいいオチにて②スタートです 前回のブログ①は こちらから

自分なりの分析①

あくまでも書籍+ネット情報ベースですが 1年間の記憶喪失事件
昨今でいうところの「解離性健忘」に当てはまるのかなと おそらく

心的外傷 又は重度のストレスで限界越えした時に起こるとされています

もうカタがついてることなので軽く云ってしまうのですが 実は私
幼女~少女期まで 身近な血縁者から断続的に性的被害を受けた経験を持つ
マイノリティ側と自らを認識しています なおかつ実家は最悪なことに

いわゆる救いが及ばない機能不全家族 そんな環境で18年間過ごしました

そのせいかどのせいかは不明ですが 早くからずっと夢の中にいるよう
離人症状というんですかね 非現実感に家を出てからも悩まされました

また行き場はもちろん居場所もなかった故郷にて 無意識に沁みついた
やり過ごすための抑圧癖が 様々な人間関係までもややこしくしてました

ふいに私の人生じゃない気がしたり そもそも私は存在してないように思え 
己の実情が他人事に感じられていた点で 既に解離してたかもと考えるのです

心の問題 精神疾患に関して当時 現在よりも遥かに暗黙されていましたから
開示しにくく 誰に話しても理解されがたく異質感からか生きづらく感じてる
にも関わらず 変じゃない いたって普通 変なのは周り と思っていました

まるで病識がない こういうのは症状として重いとされる特徴なんだそうです

繋がっている誰かがいると 理由や根拠なくもマトモだと信じられてしまう
最愛の存在 大切に思う思われる人がいる恩恵なんでしょうかね ああいうのは

たった一人の存在は一本の命綱 というか正にそれだったように思えます
孤独の底なし沼へ落ちぬよう繋ぎとめてくれてたのでしょう あの時まで

なのにそれが 思いきりブチっと切れてしまった その人の死と共に

喪失したショックは元より 世に一人取り残されたような恐怖感に襲われ
極度の心的ストレスとなり 限界を超えたため起きたのではなかろうか

と 今だからこその分析に至るわけであります

私なりの分析②

図らずも特異な体験だったわけですが 脳科学とか 精神疾患とか 心理学とか
あちこち読み散らかすと俗にいう自己防衛の一つらしく納得するに至りました

正直わが身に起こるまで信じてなかったんですが 近しい関係で実は
ほぼ同じことがあったのを 昔すぎてすっかり忘れてしまっていたんですよね

高校の時 親友が脳腫瘍で亡くなったのですが 彼を溺愛していたお母様が
心労で葬式中に倒れ 目覚めた時には息子の存在そのものを記憶から失っていた
(自ら消してしまった?)というような事が実際にありました

その時家族の人はどうしたか?というと そのお母様がもう思い出さないように
彼にまつわるモノ全てを処分 墓に名前を刻まないという辛すぎる選択をしました

それを聞いて私は激怒し彼の家族を責めてしまいました どんなに辛くても
哀しくても 覚えててやるのが本当の愛じゃないのか 親じゃないのか

でもね 本当に責められるべきは私の方ですよね 自分の身に起きて
その苦しみの深さを知るまで 愛する人を失うことの何をも分かっていなかった
のですから 最低です 今でも思い出すと恥かしくいたたまれなくなります

私に起きた事を 今だからこそですが 身近なものに置き換えてみると
『致命的な事態が起こり一旦強制終了させ 最低限の生活を送れる機能だけ残し
即座にセーフモードに切替えて 一年がかりで『人格』の自己修復を行った』

みたいな感じかなと捉えています その後 親友のお母様がどうなったかは
残念ながら分かりませんが 私は無事修復を果たして安定した現在に至ります

心のことって所詮触れられない 見てとれないものだから
どこまでも推測の域を出ませんね でも時々考えるのです 私がもしも
辛い実家時代を経ていなかったら 最終的に日常へ戻ってこれただろうか?と

違う今があったかもと

私なりの分析③

同じ苦難に遭遇した場合 外面からは決してわからないでしょうが
経験のある・なしでは 内面の衝撃度合とか問題への対処力とか
ダメージの復旧時間とか差が出るんじゃないかとそんな気がしています

そう踏まえると

葬りたい最低な子供時代の経験に 図らずも耐性を育まれてしまってて
なんとか復活できたのかなあと思うのですよね 不幸中の幸い的に

それ以来 私なりの哲学はこれでございます

「苦痛はいつか『護符』になる 苦労はいずれ『糧』になる」

長く苦しく辛い そんな最中にいる間 何かの目標に向かっている間
正気を保ったまま耐え抜くため また途中で心がへし折れないため
しんどくなってきたときは 何度もこの言葉をくりかえし思います

大変な心労を知ればいつの日か あの時に比べたら大したことない
思わせてくれ 過剰反応せずやりすごせることが確実に多くなる

労力の全てを注げば なんらかの技能を獲得してゆき人の中において
優れ抜きんでてゆく いずれそれは評価へ繋がりお金へと変化する

これはもっとも信頼のおける 私だけの普遍的な経験則かつ哲学

誰になんと言われようとブレず ゆらがず それでいてマイペースに
惑わず進んで行けるのは 行く末に『確信』しかないからなのかもなあ
なんて これまでをしみじみ振り返る部分なのであります

『寂しさ』が私から薄れ始めた日

生涯の前半に 濃いめの不幸を凝縮したかのような悲惨な時期をのり超え
正直あまり 予想だにしてなかった心理へといたってゆきました

時間をかけ徐々にですが不快感情は遠くで聞こえるノイズのように 逆に
聞き取りにくかった快の感情がクリアに聞こえ出したみたいな変化です
嫌な感情に対し難聴っぽくなった。。 そういう表現になるのかしらね

ムリムリに視覚化してみるとこんな感じになりましょうか
あの経験よりも前までは

辛い 楽しい 哀しい 嬉しい 憎い 喜び 苦しい 幸せ 寂しい 安らぎ

こんな感情のイメージが

辛い 楽しい 哀しい 嬉しい 憎い 喜び 苦しい 幸せ 寂しい 安らぎ

という風になった感じ 伝わるかしら なんとなく

意識の再起動が起きた日 『私がいま生まれた』感と同時に思ったのですよ
これは転機だと これまでの生き方を過去とし決別するなら今なのではと

まずはよくよくこれまでを振り返って 要因を洗い出そうなんて思いました

今まで一体何に苦しんできたんだろう 何に苦しめられてきたのだろう
いやそうじゃなく 何かが誤っていたのだろうか だとしたらそれはなんだろう

不幸な子供時代 居ないに等しい家族 上手くいかない人間関係 汚された性
なかったみたいに出来る人といつまでも囚われてる人の違い それは何だ?

。。。受けとめ方 とか単純に

。。。まさか いや でも

。。。それだけだったりして それ以外にはない 気がする

考えに考えて たったそれだけかもしれない。。というその結論に至ったとき
自分におきた過去の出来事に対し ゲシュタルト崩壊らしきものが起きました

確かに不幸であったはず でも本当にそうだったかわからなくなったんです

しだいに 死生観 人生観やら あらゆるものの見え方・捉え方が変化しはじめ
それは自分自身に対しても同じくあれ?私ってどんな人だった?にまで及んで
自分に関する全て 感覚も含め疑わしく思え始めてしまいました

かといって ようやく前に進みだした以上もう一秒たりとも戻りたくない
じゃ 今ここから新たに価値観を作り上げる積み上げるしかないかとなってゆき

次にやりだしたことは ずっと苦しめられ続けてきた自分の持つ受動的な感覚
特に負の感情の発露を探ること これさえ回避出来たら何とかなる気がしました

感情とは正であれ負であれ何かの知らせといえ 人はよくも悪くもそれにて
己の故(ゆえ)を常に確認・意識している
のかも またなんらかの陶酔感
もたらすから何も無いよりはマシと言い切り手放せない女性も少なくない

だからこそ探ってみずにいられなかった 感覚も感情も その元は何なのかも

負に属する中で とっかかりやすいのは『寂しさ』ではと私は考えました
誰に学んだわけでもない子供ですら 知覚している元始的な感情であり
誰かの関心を求める限り どこまでも着いてくる影のような感情でもあり

私は一つ一つ根気よく検証してゆきました 起こるタイミング どんな場面
どうすれば満足かなど 客観的継続的に 結果ひとつの真実に行きつきます
反応パターンに見覚えがあり 記憶を探り誰かわかった時 愕然としました

母でした 嫌悪してきた母親のパターンそのもの 鳥肌がたってしまいました

信じがたかった 10年必死で逃げてきたつもりだったのに
無意識にも自ら母を再現していたなんて 心底ぞっとしました

誰も信じていないくせに 誰かの憐みや関心を引いていたがった私 実は母
誰かを批判し正論を押し付けては 正義の味方を気取っていた私 実は母
予定を邪魔され 思い通りにならぬと怒りが爆発する完璧主義の私 実は母

だからずっと これは私じゃない 私の人生じゃないような気がしてた訳か
と妙に納得がいき 同時に力が抜けていきました もしや感情すらもなのか?
ありえなくない 私から自然発生したのではなかったかも そんな気がしてきて

となると 今一度よく考えなければなりませんでした 母のようにはならないと
母を強く否定すればするほど なぜか言動も感情も近づいていってしまうなら
いったいどうすればよいか 何よりも私は私自身をどこにしまいこんだのだろう

ふいに意味を理解しました あれはきっと2度目の誕生だったのかもしれないと

親から押し付けられたものじゃなく 私が私の人生を一から作ってゆくために

でも今回は赤子じゃない それだけでも幸運だし 生憎非力でも無知でもない

さよならしよう 今度こそ 母がもたらしたもの全てに

改めて決別を決意した時 実家を出てから約11年が過ぎてました

以前ならば 母のごとく過剰な不安と心配を感じてたはず けどその時もう
まったく違う気持ちでした なぜかしら楽しみでワクワクが止まらない

ああ そうか。。これが

私本来の感情なんだ。。

遠い遠い昔に封じてしまっていた懐かしい感覚 その帰還が嬉しくて
おかえり ひさしぶり と 笑いながら『私』を迎えいれた日でもありました

生の哲学『実存主義』との出会い

人より遅めで人生のスタートをきり ロケットダッシュ的にすべりだして
私の青春は30代前半に訪れました あの期間 人生の宝箱そのものです

初めてのこと かたっぱしから飛び込んで体験し 吸収していくと共に
念願の海外一人旅も同時に始め とかくこじらせがちだった人間関係が
さまざまな人と出会い対話することで 劇的な変化がおきてゆきました

人は信じない路線はまあ継続ですが 信じられる人が今いるのは快挙かも

また失っていた子供時代をやりなおし今に繋げたい悔いもあり 加えて
これから生き抜く価値観の再構築も果たしたく やりたいこと山積みで

人生を作りゆくさまは こんなにも面白く楽しいのかと初めてしりました

暇をみては名著ながらも難しそうと敬遠してた本なども読み散らかし
そんな時 2人の哲学者たちの言葉に出会います

フランスの哲学者ルソーさんはこんなことを言ってました

『私たちはいわば二回 この世に生まれる
一回目は存在するために 二回目は生きるために』

ドイツのニーチェさんはこんなこと 彼曰く

『過去が現在に 影響を与えるように
未来も現在に 影響を与える』

母の影響からの解脱 当時のことをこんな端的に表現されると思わず
脳裏に深く刻まれ忘れられない言葉になりました すごいなあ哲学者さん

ここから哲学の面白さにぐんぐんハマっていきまして でついにカミュの
「異邦人」のテーマになります『実存主義』という生き方に出会うのでした

『実存主義』とは

概要:人間の実存を哲学の中心におく思想的立場。
あるいは「本質」よりも「現実存在」の優位を説く思想。

はい なんのことやらって感じですよね 私なりの解釈になりますが簡単に
もし興味がありましたら ちゃんとした書籍など読んでみてね

(人が作る)モノは「目的や用途や理由」つまり「本質」を持って
初めて存在します ある意味食肉用の家畜もその部類と言えます

だけど人間だけはそうでないんです
そうあってもならないんです

親都合の「目的や意図のために作られた」自分だとしたら
重くて息苦しくてたまりません 人生から逃げ出したくなります

自分が存在する「本質」を問うのも困らせるだけと知りましょう
「意味や価値」などの「本質」は皆生まれながらにもっていないのです

その人の「本質」はある程度の時間経過と共に成されてゆくものです
「後から作られていく」ものなのです

今この瞬間ここにワタシそしてアナタが存在しているならば
それがまず一番に重要かつ大切なことなのです

あなたは「だれかのあなた」として生まれたわけではないし
わたしも「だれかのわたし」として生まれたわけではありません

人の「実存は本質より優先する」のです

強いられたものに苦しんでいるのなら放り出してみていいのです
あなたは最初から あなたの人生を歩むように生まれたのですから

あとがき

長い。。 実に長かった。。 お疲れ様でございました

きっと難しかったですよね 心理的なモノって伝わりにくいかなと思いつつ
自立する時期にさしかかっているとか 似たような境遇とか
誰か一人でも 一か所でも 心に響けばいいかなと思い発信しました

文章構成力 表現力にはそもそも難ありという点は否めないのですが
どうにもわかんない部分はここ意味分からん!のお叱りお待ちしています

こんな書いたのに 伝えきれてない感一杯なのはナイショと致しまして
読み返すと①と②と別の人が書いたかのよう。。まいいか 時すでに遅し

というわけでおしまい!

ここまでおつきあい&読んでくださってありがとうございました

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