ただ自信がなく、不安でいっぱいなメンタルを、乗り越えたある夜のこと

近況報告

みなさまこんばんは、わしゅーです。

うつ病になって一度仕事をお休みしてからというもの、なかなか睡眠が十分にとれず、ちょっと困っています。これまでは、たまに眠れないということはあっても、継続的に睡眠が浅い・短時間で起きてしまう、ということはなかったので、不眠の辛さがよくわかるようになりました。

ずっと座りづめの仕事なので、背中や肩が痛くなります。そんな中、昨日、仕事帰りに鍼灸院にいって鍼をうってもらったのですが、これが効いたのか、帰りの電車で猛烈な眠気が襲ってきました。家に帰れていたら、そのまま寝れたのに、、と残念な気持ちでした。

人間の身体というのは、本当に不思議なものです。ふつうに健康で過ごしていることは、すごく微妙なバランスの上に成りたっていることなのだと感じます。

不安でいっぱいだった20代前半

さて、わしゅーは、新年度になってふと思い出したことがあります。それは、20年ほど前、まだ自分が大学生だったころのことです。

そのころの自分は、とにかく自分で考えて物事を決めるということが、あまりない若者でした。どちらかというと、正解だと分かっていることを、真面目に実行して、その努力を褒められると自信になる、というタイプでした。

なので、「何を実行するか?ということそのもの」については、だれかに決めてもらわないと自信が持てない、という感じだったと思います。

しかし、大学生、それからその先になると、嫌でも自分で決めなければいけないことが増えてきます。そのころの自分は「これまでも真面目にやってきたのだから、真面目にやっていれば、きっと誰かが導いてくれるだろう」ぐらいに思っていたのです。

しかし、そのうち「待っていても、誰も自分を導いてくれない」「誰も正解を教えてくれない」ということに気付いてしまう(笑)。仕方がないので、自分でやることを決めていくわけですが、そういう経験をまったくしていない自分は、毎日が不安でしかたがなくなってしまいました。

ジタバタのあげく挫折、そして自堕落な約半年

幸い、そのころの自分は素直で、わからなかったら質問する、いろいろな人に聞く、という習慣はついていました。

しかし、質問の仕方がよくなかった。とにかく「安心したいから正解を教えてください」という気持ちになってしまう。しかし、「誰も正解を教えてくれない」ということは、頭ではわかってしまっているわけです(笑)。なので、「安心したい」「正解が知りたい」という気持ちを隠しつつ、いろいろ根掘り葉掘り聞くものだから、質問されている側も、だんだんイヤになってくるわけですね。

そのうち、正解がないものだから、ひたすら不安で悩むけれど、手はあまり動かない、という状態になりました。ちょうど卒業論文の時期だったのですが、中間発表の前の日に、それまで考えていたことが、まったく自信がなくなってしまって、1から作りなおして、徹夜する、というような、それまでの自分には考えられない行動が出てきました。

もちろん結果は散々で、だんだん、諦めの気持ちが出てきてしまいました。

卒業論文は、あまり評価されませんでした。自分にとって、明白な挫折だったと思います。大学院に進んだものの、完全に自信をなくしてしまった自分は、授業をサボって昼まで寝ていたり、アルバイトばかりするようになり、やるべきことをやらないようになっていきました。

たぶん、そのころの自分は、「これまで正解を教えてもらって、それを真面目にこなしてきたのに、それで評価されないなら、努力する意味がない」と考えていたと思います。

生活態度も、勉強に対する姿勢も、とことん不真面目になっていきました。おそらく、勉強に向きあうと、また自信のない自分と向きあわなければいけなくて、それが怖かったんだと思います。

周囲の仲間たちが、就職活動に精を出している中、自分はそんなことも知らず、自堕落に過ごしていました。

修士論文でふたたび不安に苛まれる

大学院というのは、全部で5年あり、前半2年が修士課程、後半3年が博士課程とよばれます。前半2年だけで修了して、修士の学位をとって大学に別れを告げる人もたくさんいます。

就職するにしても、博士課程に進むにしても、修士論文というものを提出して、それが認められないと、修了することができません。卒業論文は、だいたい半年で書き上げますが、修士論文は、みっちり2年間の時間がありますから、量・質ともに、卒業論文のおよそ3~4倍のレベルが要求されます。

それが試される時期が来るのに、そんなに時間はかかりません。気付けば年度末が近くなり、大した勉強もしていないのに、ふたたび勉強に向き合わなければならなくなりました。

ちょうど、ゼミの方針で、大学の外の研究会で、内容を発表しなければならなくなり、その準備に入った自分は、卒業論文のとき以上の不安に苛まれ、毎夜パソコンの前で悩み苦しむようになりました。

やっぱり正解が欲しくてたまらない

そのとき、自分が勉強のテーマにしていたのは、簡単にいうと「あるデータを分析すると、本当は関係の深いカタマリ同士なのに、必ず2つのカタマリに分かれて出てきてしまうので、それを1つのカタマリにするために、別のデータを使って、この2つは同じカタマリだよ、というラベルをつけてあげる」というものでした。

こうして書いてみると、悪くないテーマのように思えますが、当時は、「そもそも、カタマリが2つに分かれて出てくることは、本当に問題なのか?」という、根本的なところに自信が持てず、ひたすら悩んでいました。

これには理由があって、修士論文で扱うテーマというのは、自分より前に同じアイディアを出した人がいたり、そもそも当たり前すぎるアイディアには、まったく価値がないということになっているからです。

今であれば、もしそうなったとしても、別のアイディアを付け足したりして、考えを発展させていけばいい、ということがわかるのですが、当時の自分は、そんな面倒なことはしたくなかった(笑)。とにかく、だれかに「それで正解だよ」と言ってもらって安心したい、という一心だったと思います。

ある夜のこと

ひたすらパソコンの前で悶々としていた、ある夜のことは、20年が経過した今でも、はっきり覚えています。

「そもそも、カタマリが2つに分かれて出てくることは、本当に問題なのか?」

この根本的なことに自信が持てなかった自分は、論文のその部分をどうしても書くことができず、長い間、手が止まっていました。

たぶん、夜中の1時過ぎだったと思います。

突然、『自分が問題だと思っているのだから、これは問題なのだ』という考えが、閃光のようにひらめいて、論文の原稿に「○○という結果が出てくることが、問題である」と、サラサラと、はっきりと、自分の考えを、自分の言葉で、書くことができました。

それを書きおえたときの、何ともいえない、それまでの不安が嘘のように消えてしまって、「ああ、できた、これでいい」という感慨を覚えたことは、忘れられません。

はじめて、「自分で考えたことを、自分で自信をもって表明する」ことができた瞬間でした。

研究会で自分の勉強を発表したあと、とある先生から「小さなことだが、確かにあなたの言っていることは正しい」と言ってもらうことができました。

その後

人間のというものは不思議なもので、それまでずっと悩んでいたことであっても、一度乗りこえてしまうと、「いままでどうしてそんなことで悩んでいたのかわからない」ようになってしまいます。

その夜の出来事以降、自分が問題だと思ったことを、言葉にして表明する、ということが、自然にできるようになってきました。そして、それが「確かにそうだ」と言ってもらえる、という経験を何度かするうちに、次第に「自分が『これは変だな』と思ったことというのは、案外、だいたい正しいんだな」という、変な自信がついてくるわけです。

いま思うと、あのとき自分が目覚めたものこそが、よく言われる「根拠のない自信」というものだったと思います。

あれから20年が過ぎました。あの夜以降も、何度も悩んで、苦しい日もありましたが、この「根拠のない自信」を完全になくしてしまうことは、幸いにして、ないままに来ているように思います。

おわりに

20年前のある夜のことを、記憶をたどりながら、書いてみました。あのときの閃きが、いまの自分の原点になっているように思います。真面目一辺倒だった自分から、明らかに変わったのが、あのときでした。

  • 「本当にこのままでいいのか不安で仕方がない」
  • 「自分に自信をもてない」
  • 「毎日が不安で苦しい」

こういった悩みをもって、苦しんでおられる方に、すこしでも参考になることがありましたら、望外の喜びです。

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