生きる価値とか意味って?
visibility1,206 edit2016.08.11
お久しぶりです、オハナです。
忙しいこととだったり、色々考えていたりで、結構ブログ間隔が空いています。
ライターチームメンバーなのに…なんて思いますが、とりあえず最近心に大きな変化があったので、備忘録みたいな感じで書こうと思いますが 。
私が友人と縁を切ってから、半年以上経っても、私は延々とその悲しみから抜け出せませんでした。何度も書いてるので、どうしてそんなことになったかはもう敢えて書かないけど(長くなってしまうので)自分で決断してしたことでも、仕方ないと分かっていても、私は悲しんだままでした。
後悔もないし、謝ったりして再び仲良くしたいと思う訳でもない(何年か経ってお互い変わったら…位の感覚)それでも、このままケンカしたりしても解り合って仲良くしていけると疑ったことはなかった。
疑ったこともないことが、起きた。それは私にとって初めての感覚で、恋人と別れたことよりも、親と衝突したことよりも、辛くて…祖母が亡くなったことと同じくらい辛くて…。
当たり前に出席して、『歌でも歌うよ』なんて言っていた親友の結婚式には欠席した。
学生時代から、『〜が結婚したら〜』なんてずっと言っていたけど、いざのその時がら来たら、とう関係性は絶っていたなんて、昔の自分が知ったら泣いてしまうかもしれない。
家族と仲があまり良くなくて、実家の居心地が悪かった私にとって、友達は、親友は、家族のようなものだった。
実家が嫌だった時は、親友の実家に泊めてもらったこともあった。
私の人生は、イジメとか転職とか、体を壊したりとか、嫌なことがいっぱいあるけど、人生を通じてとても幸福なことは、『親友がいつの間にかいたこと』だった。
そんな私が、親友という土台を失くした。
それと引き換えに、仕事に没頭して一直線に進んだけれど、息切れしてペースダウンしたことで、『天職のような仕事に100パーセント頑張れない上に、自分の人生の土台のような、親友というものを失くした自分』に対して、ショックで堪らなくて、会社帰りの鬱は半端なかった。
1人家に帰って、暗い部屋に1人座り込んで、エネルギー切れした人みたいになったこともあった。
人前ではなんとかやっていけたし、仕事も新しいところになってから必死だった。
1人になりたいけど、誰かといたいような気分。でも誰といたいのか分からなかった。
そんな時、仕事でも追い詰められたり、しんどいことがあったり、色々あった関係で、ココトモメンバーの1人の家に泊まりに行った先週。
お互い愚痴大会でもしようか、なんて話になって、私は自分の人生の土台がなくなったこと、自分の人生に価値がなくなったことを伝えた。
これまで数人に相談したことはあって、色々言葉を貰って、自分なりに何ヶ月か考えていた。
自分が何に悩んでて、原因がどこにあって、どうしたら解決するのか?
自分のカウンセリングをしよう、そんな思いで、客観的に見るようにしながら、ずっと自問自答していた。
話は戻って、泊まりに行ったそのココトモメンバーの答えは、これまで相談してきたメンバーの共感とは大きく違って、とてもシンプルだった。
生きる価値や意味をもう一度見出したい、見つけたい、そんな願いを話した私に相手は、
『無理じゃね?ないんじゃね?笑』
Σ(゚д゚lll)
ない!?
無理!?
うそーん!?
( ゚д゚)ボーゼン…
ひどーい!!なんて内心思いながらも、そこまでショックだったわけではなくて、私の心にこの言葉は後々良い意味でじわじわ来て、ある疑問を生んだ。
『ってか、生きる意味とか、価値とか、なんで必要なの?ってか、必要なの?』
そんな気持ちが生まれた。
そこから、その日の夜に、ある結論が出た。
偶然にもゾノさんと電話するタイミングがあって、すぐに浮かんだこと考えや感覚を話したら、ゾノさんが昔抱いた気持ちに近いものであることも分かって、ビックリした。
私は、『親友』という外部に、生きる価値や意味をずっと持っていた。
それがなくなって、今度は『仕事』にその価値を見出した。
でもそれって、全部、『外』に求めてることだ。
生きる価値や意味は、外に求めたり、外にあるものに依存するべきじゃないんじゃないか?って。
そこから、ネットでも色々見てみて、生きていて、仕事して何かを生み出したり、はたまた仕事なんかしてなくても、何かを食べたり消費したり、している限り、世の中の需要や供給の何かしらには貢献していて、人の存在価値や意義はあるということ。
だから、『親友を失った今、私に存在価値はない』なんて思う必要は、ない。いや、そもそもなかったんだって。
人生の価値とか、存在価値とか、存在意義とか、生きる意味とか…何かしらそういうものがあることが、私の安心だった、それは無意識に確信していたことで、疑ったことがなくて、当たり前だと思ってた。
私の人生においての幸せがあって、『親友がいることだ』って説明出来るものがあったこと、それが安心で幸せで、生き甲斐だった。
『仕事』にすり替わったら、それもそれで安心だった、幸せだった。
でも、本当は必要なかった。それがなきゃって、執着が私の中にあっただけだった。
私が必要としていたものや、安心したかったものや、幸せだと思っていたものは、外から得た『執着』だった。
その執着に気付いて捨てた時に、解放された気がした。
親友との間に起こったことが、この私の中にある執着を取り除く為だったんじゃないかと思ったら、親友に感じていた怒りも同時に消えた。
そのいざこざの時に、親友がした発言や考え方を受け容れられる訳じゃないけど、ずっと持っていた感情のほとんどがすっと楽になった。
全部が全部消化出来て、終わった訳じゃなくても、過去の嫌な経験に意味が見出せて、凄く楽になった。
無駄じゃなかった、自分の糧になる意味のある出来事だったんだ、その気持ちが確信に変わった時に、凄く安心した。
今の私のままでも、十分に価値がある。生きる意味がある。誰にでも価値がある。そもそも価値があるかないか、人生に意味があるかないかなんて、誰も考える必要がないんだ、だから私も考える必要ががない。
自分の存在価値とか、生きる意味を考えている人は凄く多い。
それはきっと、夢に向かって輝いていたり、人とは違う魅力があってそれを存在価値や生きる意味だと断言している人が、自信に満ち溢れていてキラキラしているから。
誰だって、そんな人になりたいのは当たり前だ。
でも、そんな風じゃない自分と比較して、そんなものがない自分に落胆してしまう。
人に言えるような存在価値、胸を張れるような意味が欲しい。そうなると、自分探しの旅が始まる。
終わるか分からないような旅になる可能性は高くて、うまく納得できるものが見つかればラッキーかもしれない。
私の周りには、自分探ししている人がとても多い。
でも、あの子が描くようなイラストはその子にしか描けない。
あの子がするようなコミュニケーションは私には出来ない。
あの子のような雰囲気や振る舞いは、その子にしか出来ない。
そう、この時点で、その人にしか出来ないんだから、価値があるんじゃないかって。
だから、この事に関して悩む必要がなくなった。
外に、もう自分の価値を求めなくていいって、思えた。何もないって思ってたけど、今の自分で十分になんだから、ここから何か別の魅力が増えたら、付加価値がつくだけの話で、『ラッキー、1つ増えた☆』位の気持ちで良いんじゃないかと思う。
人の価値って、難しいもので、誰かと比較して、価値があるないの話になることが多い。
時間かけて細かく仕事する人がある職場でうまく仕事出来なくて無価値と思われていても、転職した後綿密なデータ付けの仕事で凄く重宝されて価値を見出してもらえたら、それはとても幸せなこと。適材適所。
価値のありなしは、周りの環境や人の影響を受けて、その人が自分で決めることな気がした。
じゃあ、価値があるかないかなんて考える必要がそもそもないんだって。
人は、人と関わることで、成長する。
人は、必要な時に必要な人と出会う。
誰かと関わる限り、良くも悪くも影響しあっていて、影響を与えているなら、そこに影響を及ぼしているという価値が存在する。
受けた影響が、その時悪いものだとしても、今回私が思ったように数ヶ月後良い意味を見出せたら、受け取る意味は変わる。
もし、普通の人としての価値以上に、存在価値が欲しいと思えば、探したり行動したりしたら良いし、でも見つけても見つからなくてもどちらでもいいと思う。
そもそも、そのままで、人は十分価値があるんだから。そこに更に自分が自分を好きになれるような価値が見つかったら更に良くなる、それだけの話。
本当は私にも付加価値として、欲しい存在価値はある。
でもそれに向かって、辛いと思うことや、頑張らないと、無理しないと、と思うようなことはしない。
受験のように頑張って勉強して、素敵なものを掴むことは大事。
でも、私はこれまでの経験から、苦しみながら探したり頑張ったり、神経張って頑張って、嫌々でもやろうとしたことでうまくいったことはない。
思えば全部、『楽しい、面白い、好き』から始まって、気付いたらなんか予想外の良い方向に進んでいた、なんてことが多かった。
私の場合、無理しても体に来るし、あまり良いことはないらしい、これが私にとっての人生法則なのかもしれない。
前は、『こうなったらきっと幸せだ!そうに違いない!』って思ってた。
未来に描いた幸せ、それこそ未来に描く自分の理想、付加価値を信じて疑わずに、そこに走っていく自分が好きだった。
でも、走ることが苦痛になった、でも走り続けたかった。走ってる自分が好きだった。走れない自分は無価値だし嫌いだと思った。
でも本当は、途中から走りたくなかった。でも止まって、目標や夢を『いつか』のものにしたくなかった。
期間や期日を定めて、来年の今頃は…と思いながら、目標に向かいたかった。
でもそれもまた、私の場合は『親友を失った私の存在価値や意義は、仕事。だから止まったら、仕事という生きる意味さえ失くしてしまう。』そう思った。
でもそれも、執着だった。外に求めた価値だった。
今は、〜までに〜しなきゃ、みたいな執着は手放した、敢えて。
怖くないと言ったら嘘になる。
でも、楽しんで、あまり深く考えずに行動するほうが私はうまくいくと確信がある。
保証はない。確証もない。誰か助け舟がいる訳でもない。
それでも、1日1日を楽しんで、目の前にあることを楽しんでやっていけば、きっと楽しい未来につながる。
昔、アパレルをやっていた時に、『オハナのテンションが高くて調子良い時に、その雰囲気につられて人が集まったり売上が上がることが多いね〜』と言われたことがある。
多分、楽しくしていないと私はうまくいかない。しかもそれは、仮染めの楽しさとか表面上だけではダメで、私が本当に心から楽しくしていないと効力はないらしい。
今、楽しいと思うことが楽しいのは、今感じているから、確実なこと。
でも未来に描く楽しいと思うことは、本当に楽しいかどうかなんて分からない。
『〜すれば絶対に安心出来るし幸せ!!』と思っていて、本当に幸せになれるかどうかは、なってみないと分からない。それと同じだと思った。もちろん、そう思って本当にそうなることだってあるけど、全員が全員本当にそうなれるわけじゃない。
今感じてることしか、確かなことはない。
それを思った時に、私は驚くほど色々納得できた。
あくまで、自分が納得出来た経緯や例だから、誰でも当てはまるわけではない。
ちゃんと未来を見据えて、苦しくも今頑張って数ヶ月後数年後、計画通り大成する人だってきっと沢山いるわけで…。
でも私は、『今の楽しさをちゃんと感じる』ことを今まであまり知らなかった。
先のことを考えてないと恐い、と思っていた親を見ながら、ちゃんと将来を考えて生きていかないと、と思った。
でも、今は違う。今の私に必要なものは、ある意味で逆の考え方。
今心地良い、納得出来る考え方をしようと思った。
自分の人生を、大事に生きる為に。
あくまで一論で、一考え方だけど、自分が気付いたことを、ダラダラと書かせて頂きました。
久々にこんなに長く書いたなぁ〜自己満です苦笑
天気良くて暑い!もう少し涼しいタリーズでまったりして帰宅します☆
ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました!!
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