無条件の愛【オハナの昔話】
edit2017.09.30 1,748
無条件の愛って尊い。
私がこれまでで1番印象深く覚えているのは、父方の祖母のこと。
もう亡くなってからもうあと1ヶ月半位で四年になる。
今日ふと思い出したので、それについて書こうと思います。
祖母は、女手一つで男3人を育てました。
当時は大学に行かせるのも大変だったけれど、2人は大卒です(うちの1人長男が父)。
おじいちゃんは、多分父親が10代の頃に失踪。
祖母が亡くなり、見つけ出す必要性が出て来たので調べたら、まだ生きていることが分かりました。
話を戻しますが、祖母はとても明るく社交的。レストランの横で店に入るのを待っている知らない人とも話すくらいの社交さがありました。
その経験が生保レディで活かされない訳はなく、営業をガツガツしていました。
それは、お金の為。
勿論、祖母が頑張るだけで余裕が生まれるわけもなく、当時は曽祖母も一緒に暮らして一軒家に住んでいたので、ローンもありました。
そんな苦労に苦労を重ねた祖母の元に、長男の娘として産まれたのが、私です。
男兄弟を育てた祖母は、名前を継いでくれる男の子よりも、『姫』が欲しかったそうな。
そんな祖母の待ち望んだ『姫』が、オハナです。
今では、『姫』なんて超頑張ってお世辞でと言われることは決してないけれど、生まれた時からそ!こそ亡くなるまで、祖母にとって私は『姫』だったのか…もしれません。それは聞かないと分かりません。
祖母はいつも『お父さんとかを大切に…』と親への尊敬の念などを抱くように伝えていましたが、それよりも私を会う度に『美人』とか『可愛い』と言ってくれました。
それは、待望の初孫だったこともあるのでしょう。
今思うと、最高の褒め言葉です。
だって、美人や可愛いというその言葉には理由がない。
いつもオシャレね〜♡やっぱり美人ね〜♡
何かがあるから、何かが出来るから、美人であったり可愛い訳ではない。
赤ん坊の頃から、私を見る目が変わらなかったのは、恐らく祖母位だったように、私は感じています。
口に出さなかったことを踏まえると、もっと沢山の愛情は向けられていました。でも無条件で私を肯定し、褒めてくれた人は、その思いをしょっちゅう、それこそ会う度にって位に口に出してくれる人は、数少ない。
いや、1人だけだったのかもしれない。
そんな祖母が亡くなったの、2013年の11月16日(だったかな?)でした。
正確には見つかった日が16日で、亡くなったのは15日。
70になったばかり。早い死でした。
私が祖母は最後に祖母に会ったのはその2年前。
偶然、祖母がうちに遊びに来ていて帰り際に、仕事帰りの私に会えたのです。
当時アパレルで働いていてワンピースを着ていました。初夏?位だったのかな?
私のワンピースも褒めてくれたような記憶がうっすらあるようなないような…。
でも1番印象深かったのは『あなたはおばあちゃんの1番の孫だ。あなたがやっぱり1番可愛い。』というセリフ。
親は冗談でも本気でも、見た目や顔を貶すことが多々あり、たまき服装を褒める程度。
でも祖母のその時のセリフには誰も勝てません。
『あなたが1番。あなたは可愛い。』
〜が出来るから。〜が似合っているから。
そんな前置きは、祖母は付けません。
無条件で、ただこうして立ち尽くしているだけで、可愛い。
そんな風に言ってくれた人の記憶は、祖母以外に私はないのです。
そして実は、2009年の2月から祖母にまともとに会っておらず、2012年の車で見送る際のこの偶然の会話が、私との最後の会話でした。
社会人になって鬱っぽくなり、2009年の2月辺りに行った際は、合わない精神安定剤で眠気が凄く、祖母の家のこたつでほぼ寝ていました。
多分、誕生日もあったんだけど、何を食べたかはあまり覚えていない。
私は、祖母に20年間、チョコレートのホールケーキと大量のパン(パン大好きだったんですw)あとお金を毎回くれました。
それを20歳の誕生日まで、毎年欠かさず…。妹の時もそうでした。
そう、そんな優しい祖母に、鬱っぽくなり安定剤を飲み、仕事を辞めて、その次の仕事も続かず、転々としている自分は見せたくなかった。
恥ずかしかった、仕事繰り返していたことが。
親も、『仕事どう?』と聞かれる私を気遣って、祖母の家に連れて行くことはしませんでした。
私も、祖母にとっては立派な孫でありたかった。
転職せずに、仕事に一所懸命に真面目に励む社会人。
立派な姿を見せようと、そのタイミングを狙っていました。
でもいつまで経ってもそんな日が来ることなく、周りにも『いつ亡くなるか分からないよ』なんて言われながら、覚悟しながら、でも入院してる訳でもないし、のほほんとしていました。
そしたら、突然逝ってしまった。
突然、声も聞けなくなった。
階段から落ちて、中腹で酷い角度で、そのまま亡くなっていた。
心筋梗塞でした。頭を打っているけど、その時既に意識はなかったから、思ったより苦しんでなかったそうです。
それだけら安心した。
今までお金や子育て、介護、ローン、失踪した旦那さんがどうなっているか気になっていたはず。
祖母は、恋愛結婚ではなかったから、より色々と思うところはあったんでしょう。
そんな旦那さんが帰って来た時のストレスもなく、苦しむこともなく一瞬であの世に行けた、それは私としては嬉しかったです。
でも、私が『きちんとした社会人』になる時までは、間に合わなかった。
いえ、そもそも『きちんとした社会人』ってなんだろう?
どうなれば、私は完璧で、祖母に顔向けできる自分になれたんだろう?
今思えば、いつ行っても私は恥ずかしい人間ではありませんでした。
この世に生きていて、後ろ指さされるような人間でも、生きていて恥ずかしい生活をしている人間でもありませんでした。
でも、自分の完璧さには、気づかなかった。
そんな事を感じていた時に、祖母は旅立って行きました。
あの世では、もう自分の転職回数をごまかす必要はないから、隠し事せずに伸び伸びいられますね。
幸せです。実家にいる時、祖母の突然の電話や訪問にはビクビクした。
仕事は?と聞かれれば、今日は休み。と言っていたニート時代。
悲しいかな、祖母が亡くなった時も正しくニート時代。特に祖母への言葉に表せない罪悪感や懺悔、悲しみを同じように抱えている訳ではなかったので、私はひたすら孤独でひたらすら悲しかった。
親が『転職繰り返していてもいい良いじゃない。会いに行けば。あなたはあなたなんだから、大丈夫。』とか言ってくれたら、認めてくれていたら、会えたのかな…?
なんて、手遅れなどうしようもないことを感じます。
私は、いつ、どの時に、どうすれば良かったのかな…?
この質問への答えは、どこにもありません。
もう私が出来ることは、同じようなことをしないように、会える人には、会いたい人には会っておこう、それが大事だ、ということだけです。
それ以外は、ここからは何も学べない。
死んだ人は、もう戻って来ない。
なんとなく思うのが、もし祖母があの世でお金や色々なものに縛られず楽しく生きていけるなら嬉しいこと。
いつか自分がそこに行ったら、もう生まれ変わってたら無理だけど、そこで会えるんじゃないか?ということ。
そう考えたら、死が単に憂鬱なものには思えなくなりした。祖母に会えること、という考えにシフトしました。
そうして生きて行くことが良いかどうかは別ですが…。
祖母への罪悪感が強かったのか、亡くなってから1週間はひたすら毎日泣いて、仕事をその時していなかった自分を責めました。
そこから3ヶ月、仕事はバタバタしてるのもあって出来なかった。
焼く前の姿は、冷たくてまるで蝋人形みたいで…。
よく握っていた他の暖かさはもう2度と戻って来ない。
指輪が好きでよくつけていたね。
その手が動くことはもうない。
何よりも、もうここまで、1番愛してくれた人、それを言葉にしてくれる人が、この先の人生ではもういないんじゃないか?という絶望が、私を襲いました。
無条件で、安定的で、いつも優しさや愛をくれる人は、1人いれば充分な位、貴重な存在。
そんな存在が突然いなくなってしまった。
もう手を握られることはない。無条件で、『(なんか分からないけど、なんだかんだ)やっぱり可愛い』、と言われることはない。
そう、手放しで安心して受け容れられる愛を差し伸べてくれる人が、いないんです。
そんな肯定してくれる人に、私は恥ずかしさから近づくことを申し訳なく思い、会いに行きませんでした。
いつか亡くなるかも…それは覚悟していましたが、まさかまだまだ…と先に感じて来ました。
でも思ったより急で、思ったよりアッサリで、思ったよりも酷い亡くなり方。
せめて階段から落ちるとかではなくて、布団で寝ててそのまま…が良かった。
死に際、もし階段から落ちた姿を見ていたら、私は多分トラウマになって今も覚えていたでしょう。
詳しくはちょっとさすがに書けませんが、顔はパンパンだったそうです。逆さになっていたらしいので…。
頑張って苦労して、時には血を吐いて胃に穴が空いて…それでも家族の為にと支え続けて最後はこの死に方…。
理不尽だ、不公平だ、神様はいじわるだ。
当時はそう思いました。
そして自分を怨みました。
転職しなければ、こんな恥ずかしい姿でなければもっと会いに行けた。前の彼と嘘でも結婚式をしていれば喜んでくれただろうか…?
私の結婚やら孫を見れれば、もう思い残すことはない。
こんなセリフを言われていたのに、叶えてあげることは出来ませんでした。
代わりに今、妹は結婚して子供がいます。
その子供を、あの世から見て、どう感じているのかな…?
なんてこともたまに思います。
今、私が朝に食べているハムチーズレタスサンドイッチはレタスとか野菜もあるからと知人から言われて食べているものですが、私は知人より前におばあちゃんからそのレシピを聞いていて、時たま作っていました。
今も、作る時に思い出し、懐かしくなります。
自分を一番に愛してあげることの意味は大切ですが、今回のような意味も大きい。
他人はいつか死んでしまう。それは望んでも望まなくても、先にいなくなる人はいなくなります。
自分だけは、死ぬ時も一緒です。
でも自分を愛すると、結局周りも愛せるようになるので、やっぱり自分への愛が強化されるので、周りからの愛もとても大切なんです。
だから、まず自分、そして周りへの愛、周りから受け取る愛を大切にして欲しい。
そして、私みたいに自己卑下のループの中で時間を浪費して、このような後悔を招かないように…。
今でも夢に出ますが、今は懺悔を述べる夢ではありません。起きてから2年位は、ひたすら謝る夢ばかり見ていました。
今は、変わりました。懺悔の気持ちを口に出し、目に見えないおばあちゃんに語りかけるようになって、泣いて、そして消化しました。
今もイオンとかで敬老の日とか見ると、おばあちゃんの誕生日と近いので思い出して涙まで出ることあります。
自分を無条件で愛してくれたのは、祖母だけ。
そう限定してしまうのはあまり良いことではないけど、血縁関係がある故もあり、中々強烈な記憶です。抜けるものではない。
でも、人生においてこのような理由や根拠なく、見返りもなく、ストレートに真っ直ぐに愛情を向けられた存在があったからこそ、今私が出来ていることがあります。
それは、ライフェチェンジカウンセラーにも確実に影響している。
おばあちゃん、ありがとう。
今自分を愛せて満たされた私にとっては、もういなくてもおばあちゃんは最高の存在でした。
おばあちゃんの社交性など、色々受け継いでいるところを多く感じるよ。
今自分がこうして出来ることがあることが、とてもありがたいと思っている。無条件に愛をくれたことを今もこの先も一生感謝していきたい、私も誰かに与えていきたいと思います。
本当にありがとう。
- ココトモInstagramはじめました♪
-
このたび、ココトモの取り組みや想いを発信するInstagramをはじめました。ココトモメンバーたちが試行錯誤しながら運用してくれているので、ぜひ応援&フォローいただけると嬉しいです(*´`)
Instagramはこちら