かっこ悪く生きる、というプライド

こんばんは、キュウです。

最近、バイトを1つ辞めました。

正しくは、辞めざるを得なくなりました。

バイト先のオーナーが変わるとかで、いきなり仕事がなくなりました。掛け持ちしていたので、もう一方のバイト先の収入でギリギリ生活していけるのだけど。それに、次の仕事も決まったので、そこまで大変な状況ではないのだけど。

仕事が1つなくなると、時間ができるんですね。次の仕事が始まるまで少し自由な時間ができたので、その時間を使ってブログを書くことにします。

よろしければ、お付き合いください♪♪

かっこ悪く生きる、というプライド

私には今、生きるテーマがあります。

それは「心に素直に、運命の流れに身を任せて生きる」ということ。

そして、自分の弱さを隠さない、コケても前に進み続ける、ということです。

 

弱い部分とか、かっこ悪いところって、人に見せるのに勇気がいりませんか?

どうして勇気が要るんでしょうね。

その部分の自分を見せたら嫌われる、と思っていたのかな。

それとも、そこから逃げたい心の現れなのかな。

 

私は、半年ぐらい前までは、かっこ悪いところを人に見せないように隠して隠して、殻に閉じこもっている人でした。

でも、あるきっかけがあって、自分が「過敏性腸症候群」だった当時同じような病気で苦しんだ人の話も少なく、安心を得ることができない苦しさを味わったことから、私の人生を発信することで、少しでも「自分だけじゃないんだ!」と感じてくれる人がいたらいいなと思って、ブログに赤裸々に綴ったり、人に話したりすることにしました。

 

ここに一人、かっこ悪く生きている人間がいる。

かっこ悪いけど、なんか胸張って幸せだって言っている。

 

その事実が誰かの胸に響けばいいなあと思いながら、私は今も弱さと戦って、戦った日々を文字に綴っています。

私の話を読んで、いろんなことを想う人がいるでしょう。

「いいね!」と思ってくれる人もいるだろうし、「かっこ悪いなあ」と思う人も多分要るし、イライラしてしまう人もいるはず。特に、自分一人でなんでも乗り越えてきた人からすれば、私みたいになんでもアウトプットして誰かに助けてもらいながら生きている人は「甘ちゃん」だとムカついたり、もっとプライドを持てと思うんだろうな。実際、そう言われたこともあるし。

でも、私は私なりのプライドを持って、かっこ悪い生き方をしているんです。

かっこ悪いって、素晴らしい

人に頼るって、かっこ悪いですか?

そもそも、「かっこ悪い」って、なんでしょう。

落ち込んでる姿を人に見せることは、果たして本当に「悪いこと」なのでしょうか。

 

私自身は、人の「かっこ悪い」姿を見るのが好きです。

その人の本質を見せてもらっている気がするから。

人にはなかなか出しづらい「かっこ悪い」部分を見せてくれることって、多分、私のことをそれだけ信頼してくれている証拠だと思うんですよ。この人になら出しても大丈夫だ、という信頼の気持ちがきっとそこにはあると思っていて。

誰かがかっこ悪いことで傷ついているところを見ると、「かっこ悪くてもいいんだよ」と声をかけてあげたくなるし、「私にこんなに心を許してくれていたんだ!」という嬉しさもあり、もっと相手のことが好きになります。

キュウは人に頼りまくってる

キュウは、広く浅く人と付き合う感じの人なんですよね。

みんなのことが好き、ってことは、みんなと同じように付き合う、という感じのスタンスなんですよ。

そうして、いろんな人と人付き合いをするわけですが、自分が悩んだり、感情の発散に困ったときには、そんなみんなの中から一番適切な人は誰なんだろうなーと考えて、話を聞いてよーと連絡をとったりします。

この人は今は人の悩みを聞ける状態じゃない、とか、この人に話しても多分ピンとこないだろう、この人は似たようなことで悩んだことがありそうだ、とか、そういうことをすごく考えながら、自分の悩み相談相手を決めて連絡をとります。それは、空気を読んでいることになるのかもしれないけど。

 

あとは、自分が結構メンヘラ気質で、一人の人に頼りすぎるとその人に重くのしかかることになる、ということをよく知っているからかもしれません。中学の頃から、一人の人に溺れていきそうな自分に気がついては、その人が自分に構える時間には限りがある、ということをよーく自分に言い聞かせてきていて、いろんな人に少しずつ吐くことが、一番、人一人当たりへの負担が少ないなあと感じて、今のようになりました。また、いろんな人に感情を吐き出すことで、違った意見になんども触れて、自分が言葉にできなかった答えを教えてもらえることが多いという利点もあります。自分の心が落ち着くまでそれを繰り返しちゃうのだけど。

そこは私の弱い部分だなあ、本当に。

 

最初は、

「人に迷惑をかけている」

という意識があって、すごく申し訳ないなと思いながら、こういう方法でしか感情を処理できない自分への罪悪感に苛まれながら人に話していたのですが、ココトモに来て、自分を好いてくれる人が居るという事実を受け入れられるようになってきてからは、「たくさん迷惑をかけてしまっているけど、これで誰にも吐き出せないで一人で抱え込んで孤独で爆発する方がみんなに迷惑だな。だったら、より迷惑の小さい今の感じで頼らせてもらおう」みたいな考えに変わって、安心して心を預けられる人が増えたんですよね。

「迷惑だと思われているんじゃないか」「本当は私のことがうざいんじゃないか」

という気持ちを溶かしてくれたのは多分、ココトモに来て接した人たちの影響が一番大きいのだけど。(そのエピソードはまた後日書かせてくださいね^^)

私のことを心からウザくおもわないであろう、と感じられるいろんな人に頼ることで、その人たちから頼られるようにもなったし、持ちつ持たれつの関係がいくつかできつつあるので、いろんな人に心を開けるのはある意味いいことなのかも、と思いました。

 

キュウの好きな言葉

「日本の親は「人に迷惑かけちゃダメですよ」と教えて、インドでは「お前は人に迷惑かけて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」と教えるそうだよ」

 

この言葉、何かで読んだ時に、すごく心が楽になったんですよね。

人に迷惑をかける自分を許しやすくなったし、そんな自分と同じような人たちをも許しやすくなった、というのかな。自分も迷惑をかけていいし、その分人をゆるしたらいい。すごく愛に溢れた言葉だなあと思って、心の引き出しにしまってあります。

私に持てる分の重荷は一緒に背負ってあげたいし、自分の重荷もみんなに少し手伝って欲しい。

迷惑をかけないように空気を読み合う関係よりも、そういう、持ちつ持たれつの関係の方がキュウはとっても落ち着くなあって。

 

でも、もしかしたらそういう「持ちつ持たれつの関係」をすんなり築けるようになってきたのは、私が「もらう」ことではなく「与える」ことに目を向けられるようになったからなのかもしれないなあ。

 

昔の私は、どうしようもないクレクレ星人でした。笑

クレクレなキュウ

さて、ここで、相当かっこ悪い「クレクレなキュウ」のお話をしましょうか。

小学校のドロドロな女子社会で生きるために、と身につけた悪口スキルの話とか出てきますけど、皆様、ついて来る覚悟はよろしいですか?笑

きっと、今とは違いすぎて驚くこと間違いないですよ。笑

それでもよろしければお付き合いください(*´-`)♥

ヤキモチ焼きで、自分が一番

実は、キュウは幼い頃は、すごーくやきもち焼きだったんですよ。

大好きな友達の一番になれないと嫌だったりとか、自分が一番と思っている友達がだれか他の人としゃべっているだけでやきもちを焼いてしまったりとか。

自分が一番可愛かったというか、相当な孤独を抱えていたんだろうなあと思うんですけど。わがままだったなあ、本当に。(今はやきもちは焼かないけれど。その話はいつか機会があれば書こうかな。(笑)(笑))

 

自分が一番じゃないと嫌だ。そのために人のご機嫌取りをしてしまう。「いい子」になるために生きている。人の考えを聞くと、自分の価値観や態度をコロコロ変える。人に合わせる。人と友達になる手段として、陰で悪口をいう。すぐ人と縁を切る。

そして、本当に最低で申し訳ないですけど、自信がないからなのか「悪口を言うことでしか人と仲良くなる手段が分からない」と本気で思ってた時期がありました。

当時は「悪口=本音」みたいな、歪んだ考えをもっていたなあ。周りがみんな悪口を言う人だったからだと思うけど。でも、そうして悪口で繋がることで得られた人間関係など悪口を言い合う集まりでしかなくて、皆が陰で悪口を言い合うので、結局安心できる場所ではなかったんですよね。

だって、自分もどこかで言われているかもしれない恐怖に無意識に怯えているから、満たされることなんてありえない。悪口を言い合える関係がいい、なんて、ただの強がりな見栄っ張りでした。

そして、面倒くさいプライドもあった私は、そんな自分に薄々気付きながらも、そんな自分を認めたくなくて、結局悪口を言いまくってたと思います。あー。最低だったなあ私。

そんな悪口で得られる優越感など、本当に虚しかったなあ。そんなの本当の友達じゃない。本当の心のつながりは、悪口を言うことでは得ることができない。だって、そこには「信頼」がないのだから。

悪口って、下品で卑怯だったかも

悪口って、裏切りだったと思う。本当の本音なんて、悪口に現れなかったと思うんですよ。

本音を感じるときに、「相手にはこういうところがあって困るけど、それでも対等な人として扱わなければならない」と思えたらよかったのですけど。

今思うのは、相手を対等な人として扱うためには「自分がされて嫌なことはしない」という基本から始まり、でもその枠だけにとらわれすぎずに、相手が心地よく感じることを少しずつ仲良くなりながら感じ取って、お互いの居心地を一緒によくしていくのが対等なんじゃないのかなあって。苦手な人なら「距離を置く」という選択も含めて、お互いがお互いを嫌いにならない距離感を保つというかね。

まあ、皆がどう考えているのかわからないし、それが正解なのかもわからないのだけど。

 

やっぱり、悪口を言われたら、普通はその人に対して不信感を抱くじゃないですか。自分が信じていた人に知らないところで悪口を言われていたと他の場所から知った時のショックたるや、相当なものですよ。そんな恐ろしい気持ちは、どんなに嫌な人にも味わわせてはいけないと思うんです。

 

私は、今は、嫌いな人とも苦手な人とも、信頼関係は築けると思っているから。

 

自分の苦手意識をなるべく捨てて、相手を人として大切にすることを忘れなければ、信頼関係は築けると思っているから。

 

たとえ自分が「人のこの部分が嫌だと思っていた」という本音があったとしても、「それをたくさんの人の前で言う」こととか、「人に聞こえるように言う」という方法でそれを表現するって、とても卑怯だったなあと今では思うんですね。そんな自分に自信がないから自分の味方を作ることで束の間の安心が欲しかっただけでしょ、というか。すごい自分勝手な行動ですよねそれって。巻き込まれる周りはかわいそうだったんだなあ、今思うと。

過去の自分を責める気持ちと久しく向き合ってなかったから、思い出が甦ってくるとイライラしちゃって強めに言ってしまったけど。

本当は、自分がその嫌な部分で困っているのなら、その困っている気持ちを秘密にしてくれる人何人かに吐き出して、自分のモヤモヤを解消させてもらえばいいだけの話だったんじゃないかと思うんですよ。今振り返ると。

自分が誰かを苦手だからって、周りに「この人は嫌な人だ!!」と全然関係ない人に先入観を与えてしまうのは全然フェアじゃなかったと思うし、その人にあったことがない人にまで「その人のネガティブな印象」を与えてしまう恐れがあったんですよね。

第一印象って、本当は自分で会って感じてみるのがいいと思うけど、いろんな人の噂話や評価によって、会う前に印象が決まるって悲しすぎる。そういう先入観は、他の人がその人の心の本質を見極める邪魔になったりもします。

本当に、よくない。よくないことでした。

 

噂話、とか、悪口、とか、そういうの、小学生で卒業できてよかった。

キュウは、今では、噂話や悪口は信頼や安心を産み出すことはできないと思ってます。

もうしない。もうしたくない。ごめんなさい。本当に後悔しています。

 

悪口は面と向かって言えばOKなの?

あと、私が未だにモヤモヤしている考え方の一つに

「悪口は面と向かって言え!」という考え方があります。

面と向かって言えるなら悪口は許されるみたいな考え方、私はあんまり好きではありません。

面と向かって言われるとショックな時もあるじゃないですか。前向きなショックならいいのだけど、そこに「お前はいらない」という冷たいメッセージが込められているともうダメ。

そんなの面と向かっていう必要はないし、もっと適切な伝え方があるでしょう!と思うのだけど。

でも、小学校の時はそんなんばっかだったなあ。

自分てなんて未熟だったんだろう。

 

今でもとても未熟ですけど、それでも当時よりは落ち着いてます。

過去と今との関係性

どうですか?驚きましたか??

キュウはそういう最低な(自分では最低と思っている)考え方をしていた時期にかなり失敗を重ねたからこそ、2度とやらないと決意できたし、反対の「与える」「人と対等に接する意識」みたいなものを身に付けようと必死になって努力しました。

教会で、道徳的な価値観についていっぱいいっぱい学んで実践しようと頑張っていたから、人を傷つける方向には歪まずにすんだのかもしれない。

私を矯正してくれる教えがあってよかったなあと思ってます。

 

罪を憎んで人を憎まず。

悪いことをしていた私に嫌悪感は感じるけど、それも含めて私なのだから、もうしないと決意した私を信じてあげたい。

 

というか、もうしません絶対に。私は人を愛し続けます。

 

下手くそで不器用にもがき苦しむと思うけれど、悪意なんて自分の心に微塵も感じないほど真っ直ぐに人と向き合って愛し続けてみせる。

その決意と覚悟は、もうとっくにできています。

 

弱みを見せることで安心してほしい

実は、こうして自分のことを赤裸々に語ることも、私の愛の一つだったりとか。

私のかっこ悪い面を見せることで安心して欲しかったり、一人じゃないんだよと伝えたかったり、あなたのことを信頼してますよと伝えたり。

どんなに弱い部分を見せるのが怖くても、まず自分から弱いところを見せることで人に安心を与えられるのであれば私は自分から弱さを発信していきたいと思っているから、こんなにいろいろ赤裸々に語るのですが。

そう、はじまりはただの私の「皆にこうなってほしい」というエゴなのだけど。

 

でも、そうして、それによって生まれる繋がりで、私も助けられていたりとか。

持ちつ持たれつ、の関係ですね。エゴから始まる愛もあるんです。

 

自分らしい生き方をしていることで、そういう生き方が好きな人たちが自然と周りにいるようになってきたり、そういう生き方をしている人に惹かれるようになっていく。

今の居場所がそういう人たちの集まりでないならそこに違和感を感じ苦しむようになるし、そういう時は自分に合った別の場所を探してもいい、という、自分の心からのサインだったりもする

そのことに気がついてからは、かなり心が楽になりました。

 

世界はまだまだ広いのだから、きっとどこかに自分の素のままの生き方を受け入れてくれる場所がある。そこに出会えた時の喜びは大きい。

その喜びに希望を抱きながら、これからも人生を進んでいきます。

愛について

私の好きな言葉の一つに、「慈愛」についての聖句があります。

慈愛は長く耐え忍び、親切であり、妬まず、誇らず、容易に怒らず、悪事を少しも考えず、罪悪を喜ばないで真実を喜び、全てを信じ、全てを忍び、全てを望み、全てに耐える。

 

この言葉のそのまんまの人になりたくて、いろいろ模索している途中です。

模索していく中で思うのは、この通りの完璧な人になるのって、多分生きてる間には無理なんだろうなあということ。

でも、自分が完全じゃない、ということを知っていることこそが、私の強みなんじゃないかなあと、最近は思います。

自分は完全じゃない、と認める勇気

先ほども書いた通り、私はもともとプライドが高くて、自分はなんでも知っている風に見せたかった人でした。自分を飾ったり、いいように見せちゃう人だったんですよ。小学生くらいのときはかなりひどかったと思います。

その反面、そんな自分はなんてちっちゃい人間なんだろうと思ってたりとか。

自分が完全じゃないと自分から人に見せるのが怖いだけの、ちっちゃな人間だったのでした。完全じゃないと認めたくなかったのかな、多分。いい子になるために生きていたから。

本当は、そんな最初から完全になれるわけがないのにね(笑)(笑)

 

そういうプライドが邪魔して、人に素直に謝れないのが一番苦しかったと思います。

そんな自分の中のプライドがとても嫌いで、捨てよう捨てようととても頑張ってます。

 

今は、以前よりはプライドを捨てられたと思うのだけど。

プライドは利己心だし、利己心は愛の邪魔になるから、私はプライドを捨てたいのだけど。

もしかしたらそれは、「私は人をとことん愛するんだ!」という別のプライドなのかも。

プライドを捨てる、というプライド。なのかもしれません。

 

あれ?結局プライド高いのかも私(笑)(笑)

プライドの向かう方向が、今までとは逆の方向になっただけなのかもしれませんね。笑

顔出しの恐怖

私はもともと、ライターとしてココトモに所属していたときは、顔写真をHPなどに載せることを拒否している人でした。それは、専門学校で私をいじめた人がたまたまPCが得意で、誰にも教えていなかったはずの自分のHPを突き止められて傷つけられたことがあったからです。

「また探されて、いろいろ書かれたらどうしよう」

そんな恐怖が私を苦しめて、HPに顔を載せるのを拒否していました。トラウマのようなものですね。

 

でも、ココトモハウスで看板スタッフを始めるときに「顔写真を載せるのは必須だよ」と言われてすごく悩んだときに、私が思ったのは、

たった一人に嫌われるのを恐れて、人に安心を与えられないようでは、私はまだまだだな。

ということ。

私はこれからここでみんなに愛を注ぐんじゃないか。

来てくれる人のことを考えれば、私の顔が見えて、どんな人なのかわかった方がより安心できるに決まっている。そもそも自分なら、顔が見えないスタッフのところには行きづらい。

だったら、この恐怖は、もう、これから出会うみんなのために捨てられる。

 

多分、自分のかっこ悪い話を赤裸々に話そうとしているのも、「自分の”認めてもらえないかもしれない”という恐怖に負けて人に安心を与えられないようじゃ、自分はまだまだだ」というプライドがあるからじゃないのかな。

このプライドに気がついたのはごく最近のことで、ココトモハウスの看板スタッフを卒業するときに気がついたのだけど。ああ、私はプライドを持ってスタッフをさせてもらっていたんだなあ、と、ひしひしと自覚したのだけど。

 

「かっこ悪く生きる、というプライド」

きっとこれからも、持ち続けるんだろうと思います。

 

そして、同じように生きるのが不器用な人たちが、かっこ悪い自分を認める助けになれたらいいな。

 

これからも私は、弱音を吐きながら、みんなと一緒に這い上がっていきます。

 

 

終わりに

あー、なんかながくなっちゃったなあ。2ヶ月ほどかけないスランプに陥ってから、この間かけるようになったのですが、しばらくは「テーマを決めてもそのあといろいろ脱線してもいいからとにかく思いのままに書いてみよう」って思っているので、そのように書いてみています。

テーマがあちこちズレて読みづらかったらごめんなさいね💦💦

 

今回は、結果的に決意のブログになったのかも。

今ここに書いてある、感じていることが正しいかどうかなんて、誰にもわからない。でも、それでも、今現在そういう気持ちになっていることだけは間違いのない真実であって、今の等身大の自分が感じていることを書き残すことこそが、一番大事なんだと思います。

 

では、また次回のブログでお会いしましょう⭐

 

キュウ

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コメント一覧

全2件
  1. schedule2016.06.09

    匿名

    僕はもしかしたら、ほんとにキュウさんの逆なんだろうなあ。
    嫌な人とはもうかかわりたくないし、万人を愛するなんて、なんか胡散臭い。
    広く浅くが分からないし、狭く深くもわからない、、、

    まあ、頑張って。

  2. schedule2016.06.09

    ぬい

    弱音を吐く
    それって意外と難しいことのような気がします
    きっと同じことを何度も何度もぼやく
    なんだろう
    もし、その弱音を自分が聞く立場だったら
    それはとっても疲れるんだろうな
    そんなことをつい考えてしまう
    それって実は自分を受け止めてもらえるっていう自信がないのかもしれません
    自分はもしかしたら受け入れられないんじゃないか
    そういう気持ちがどこか根っこにあって
    弱い部分を無意識に隠しているのかもしれません
    弱い部分を打ち明ける相手をしっかり選ぶ
    それはとても大切なことだと思います
    そうでなければきっととても傷ついてしまうから
    けれどそうやって人を選んでいるとどうしても
    とてもとても重たくなってしまう
    それもまた難しいところで
    結局難しいなって
    私は思います

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