恋愛における『執着』は宝物

初めてです。恋愛について書くのは。

オハナです。この恋愛に関することは、本当は、全部忘れて綺麗さっぱりしてから、振り返りや思い出のように、いつかここのブログで綴れたら…なんて、かれこれ1年以上思ってました。

実は、恋愛、凄く苦手なんです。

人の話を聞くのも、自分の過去の恋愛の話をするのも全く苦ではない。

ただ1つ。『今の恋愛』に関しては、どうしても人に話せませんでした。

恋愛への強烈なコンプレックス

私は、昔から親に容姿に関して、冗談でも本気でも色々言われることが多く、自信がありませんでした。

でもそれでも、洋服で着飾った自分は好きだったし、周りの友人も容姿について言う人はおらず、本当は自分の事が好きだった(好きになりたかった)のだと思います。

でも、容姿への件以外にも、私には『人を好きになりにくい』性格がありました。

その関係で、本当に人を好きになったのは、いつなのかハッキリしてなくて、下手すると23歳で初めて付き合った彼が、実は初恋なのかな?

新卒の会社関係で好きになった年上の人がそうなのかな?

どれか分からないw

それまではあまりに異性を好きになれなくて、他の友人の話や、周囲の大人からの『学校で好きな人いないの?』という言葉に対応する為に、無理矢理(苦笑)好きな人を作り出し、自分に、周りに思い込ませた?言い聞かせた事がある程でした。

おかしいですよねw

勿論、話している通りなので、高校でも恋バナは他人事で、自分の話は出来ません。

とある友人に『今まで彼氏いたことないなんて、おかしい!!』と学校で叫ばれたこともあるくらいw

でも、男子生徒からも女子生徒からも、イジメられたり人間関係でもみくちゃにあった私が、誰かを好きになるのが難しいって、当時を思い出して考えてみれば当たり前でした。

特に、最初の異性である『父親』は、私の顔について「目が小さい」などと言う人だったので、異性自体に最初は良い印象が持てなかったのかもしれません。

しかし、例え恋愛対象として見れなくても、高校の時にクラスで独りだった私と話してくれて、親身になってくれたのは、部活の男友達でした。今でも名前や顔をよく覚えていて、出来るなら会って感謝を伝えたい位、あの時支えてくれたことを、感謝しています。

だから、異性への嫌なイメージみたいなものが染み付くことはなくて、「この人が嫌」みたいなことはあっても、男が…女が…みたいなことはならなかった。それは本当に良かったと思います。(ただ、女子多めのネチネチ感は未だに苦手です…)

また、特にいじられキャラの私。

『オハナさんと付き合う人はどんな人なんだろうね〜?(ニヤニヤ)』

『オハナさん変わってるから、向こうも結構変わってる人だと思うよ〜(ニヤニヤ)』

みたいな、バカにされてる感を感じたり、自分の付き合う人は、可哀想なのかもしれないと思ったり、容姿がそんなに良くない私なのに、相手に申し訳ないとか、自己否定感とか、自己肯定感の低さが助長されたりとか、なんとかうんとか色々あって、とにかくニヤニヤして聞きそうな人には、話さなくなりました。

いや、嘘です。ほとんど、いや全く人に恋愛相談しませんでした。

付き合ってしばらく経ってから、本当に仲の良い人にだけ話したり、結婚を意識したレベルまで行った時に話したり…。

それでも、多分ほとんど話していない。

彼と別れることになった時も、別れた後に話してました。苦しんでる時は話さなかった。

片思いの時は、多分人に話したり相談した事はほとんどありません。

話した時に、『あなたみたいな人に好かれて、可哀想』と、相手が思われるのが嫌だった。

そんなこと言う人がいるわけ無いのに。

自分で思っているそんな気持ちを、それに近い言葉を言われるのが嫌だった。

変わり者の私、変なことばっか言って、めんどくさい私の相手をする人が可哀想だと。

相手の人も変わっているんじゃない?

そんなレッテルを貼られてるのも嫌で…。

私を通して、相手まで変な目で見られるんじゃないか?

そんな恐怖が、ずーっと今までありました。

でもね、それって私の中の恐怖を通して友人の言葉を受け取ったり、友人の表情を見たりしていただけで、『自分の思い込み』がすごーくあったんじゃないかなぁ?なんて、今は思います。

んで、話を戻しますw

昔話がかなり多めになりましたが、本題の『執着』。

今、大分心の整理が落ち着いたけど、好きな人がいます。

落ち着いた、と言うのは、考える時間が前より減ったということ。

結構今年頭までほぼ毎日想っていたので、多分想いは強めです。

両思いでもなんでもなくて、会わなくなってもうすぐ1年経つけれど、片思いを数年し続けられる、とゆーか覚えている自分に脱帽です。

一途。と言えば聞こえは良いけど、結婚も子供も望んでいるのに、彼女がいる(今は分からないけど、多分いるのかな?)人を数年想い続けるなんて、頭で考えれば『いい加減にしろ』と言いたい。毎日言っていました、自分に。

ある時は、この執着に許可を出して『好きなだけ想いなよ』と言ったり、ある時は『無理な相手を想い続けて、このまま一生過ごすの!?』と焦ったり…。

その好きな人と繋がりがあるものは、1年ほど前に全て消したので連絡先はもうありません。

人に現在進行形の恋バナをするのが、超超苦手な私が人にこの感情を話せたのは、その好きな人を忘れようと、全てを辞めて捨てた後。

相手がいる人に、立ち向かう勇気は私にはなくて。自分が誰かより勝ってるとか思えなかった。

おまけに、その人とは関係性も色々こじれて、最後の最後にはかなり酷い状態でした。(相手は分からないけど、私はメンタルも体もかなりヤバイ状態でした。)

尚且つ、追い詰められたのは、その環境だけではなく、その好きな人の発言や態度も大きかった。

好きな人からの言葉って、ヤバイですね。普通に人からの攻撃って辛いけど、好きな人からの攻撃って、ヤバイとかじゃなくて、絶望するレベルなんだな、と思いました。

そんな恋愛だったこともあり、好きな人の話をすると決まって友人は『もうさぁ、そんな人忘れなよ…』となります。

当たり前です。私が友人なら、同じことを言うと思う。

頭で理解していて、十分わかっていて、頭では何が幸せが分かっていて、忘れることが1番で…。

なにもかも理解しているのに、心だけは忘れられない。離れない。それが執着。

馴染みの場所で会うんじゃないか?というか期待と、会いたくない気持ち。

淡い期待。もし会えたら?もし付き合えたら?という願い。

もし一緒になったら?

もし、彼女さんと結婚が決まっていたら?

一般的な恋する人が抱く感情。

例え、苦しい記憶が凄く多くても、楽しかった記憶も幸せだった記憶も確かにあります。

でも、最後は最悪だった。

なんで、あんな人好きになったんだろう?

自分を責めたりもしたけど、1年近く、本を読んだら色んな人に打ち明けて話を聞いたりして、全部自分が作り出して見ていたことなんじゃないか?とか、本当に色々な事を知って、今はほとんど辛さは消化しています。

でも、今も感じる期待や、願いは、『執着』だから。

手放さなきゃいけないと思っていました。

持っているのは、『悪』だと。

恋愛で恋愛を重ねるのは、私は絶対違う。

「好きな人がいても、結婚時でも良い」そう言ってくれた友人もいたけど。

私は、この状態、好きな人に好きだと感じられると思えなかった。

必ず消化したい。そうしなければ、私はまた人を好きになれない。

だから、早く執着を手放さないと…。

だから、片思いを忘れる方法。

復縁する方法。

執着を手放す方法。

ネット、ツイッター、本、人からのアドバイス…ずーっと手放せる時を今か今かと待ちわびました。

なんせ、滅多に人を好きにならない私。

4年ぶりか何年振りかの恋愛が、ホントは嬉しかった。

昔、友人をバッサリ切って、辛い思いをしてから、また人を信じて、また人を好きになれるなんて、思わなくて、嬉しかった。

彼を思い出すと、良い記憶は本当に幸せで楽しかったのに、手放さないとダメなのかな…?

思い出を手放すのは、楽しかった想いを手放すみたいで、辛かった。

でもいつしか、覚えていることも悲しくなった。

記憶だけにすがるんじゃなくて、現実で、幸せになりたい。

それには、執着はやっぱりダメで手放さないと…。

そんな中、ある本を読んで、その執着自体を受け容れる方法が自分が1番しっかり来る方法だと分かり、やっと楽になれたんです。

そこに書いてあったのは、『執着は自分の未来に必要な出来事である可能性が高い』と。

幸せになる為のプロセスの中にあるものだから、無駄でも邪魔でもない。

手放したいのに、どうしても手放せなくて否定するのではなくて、必要なものだから受け容れて良い、と。

凄く、スッとしました。

あ、良いんだ。これ、必要なんだ。

不要で手放さなきゃ私が成長出来ない、幸せになれないと思ってた。

執着って、ネガティブですよね。

ダメって書いてある本の方が多くて。

それを無くさないと、幸せになれない、みたいなことのほうが多く情報としてあった。

自分の幸せに、この執着という経験が必要だと思えた瞬間。

執着という重くて暗くて、ネバネバしたようなドロドロしたような物に見えていたものが、虹色の花びらみたいな、とてつもなく綺麗な物に見えたんです。

あ、これ、私の人生を彩る花びらなんだ。

そう思えた時に、執着、持っていようって。

必要だから、持っていようって。

そう思えたんです。

すごーく、嬉しくて。

この恋愛があったからこそ、対面相談でも恋愛の話を昔よりずっと理解出来るようになった。

恋愛をすると、自分こんなにめんどくさいんだなwと分かったり、恋愛面の自分の本性?を知ったり…。

気づけたことも沢山あった。

彼に会った事を、無かったことにしたり、後悔したくなかった。

でも、このままずーっとは嫌で。幸せになれないのは嫌で。執着しているのが時間の無駄になるのも凄く嫌だった。

でも、自分の幸せに必要不可欠なとのならば、嬉しい。私の幸せの一部なんだと思ったら、一気に幸せな気分になったんです。

ここまで、1年。

好きになって、2年が(多分)経った。

人との出会い全てに意味があると、いまなら前より思えます。

1年前、辛さの地獄みたいな気分があったけど、あの人と過ごした何気ない時間を、執着を、無駄とかどす黒いものだともう思わなくて良いし、その想いすら、自分の幸せに必要なものだと思えたことは、私にとって本当に良かったことです。

恋愛へのコンプレックス、この一年で大分変わりました。

ココトモ入った時は、恋愛相談多めの場所なのに、恋愛相談(メール相談してた時)は避けてた位w

恋愛経験の少なさ(滅多に人を好きにならないし、初めて人と付き合ったのも遅かったのがネックで…)が引っかかって、私が乗ってもアドバイス出来ない説得力ない、と思って、自信がなかった。

失恋したのに、恋愛コンプレックスを少しずつ消化していっているので、好きなあの人には、感謝をしなきゃいけないなぁ。(同じ環境にいる時、感謝や想いを書いたラブレターは何度も渡したことありますけど…苦笑)

本当は執着のことを書きたかったのに、別のことが長くなって、ものすごくまとまりのない文章になったけど、この今回の恋愛に関しては、いつか書きたいと思っていました。

今日こうして自分の恋愛のことを綴ることが出来、とても満足しています。はい、自己満ですね苦笑

今の恋愛、じゃあ執着してどうなるのか?

それは、私にも誰にも分かりません。

傷つけ合うような、昔の関係は嫌だなぁと思います。それは別の人と一緒になる上でも同じこと。

私のこの恋愛の終わりが、忘却か、何なのか、それは、また何かしら結果が出た時に、ここに書くかもしれないし、書かないかもしれません。

結果が出てないのに、終わってないのに、ブログに書く気が起きるとは、自分では思いませんでしたが、ある意味の一区切り。

想い続けている(忘れて行ってるっちゃあ、忘れて行ってるけど)自分に、お疲れ様。

そして、彼に、ありがとう。多分、今も(笑)大好きです。

こうして、恋愛に限らず、忘れられない苦悩や辛いことを、無駄だと思わず、必要だと捉えていける人間に、この先なって生きたいと思います。

終わり(じゃないかもしれないけど、また続編があるならば書きますw)

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コメント一覧

全2件
  1. schedule2018.04.09

    ohana

    ぬいさん。
    執着を消すことに執着する。
    納得だなぁと、なるほどなぁと思いました。(毎度なるほどと言ってる気がします…笑)
    そうそれです!!!!執着を消すことに執着してたから、違和感があったんだとコメント読んでて思いました!!

    私の心が辛くないのは、執着を受け容れること、でもその為に「執着が悪いものではない」と強く思えるような、何か強烈な言葉必要だった、それが今回本から得られたことです。

    未来に必要だから。
    それが腑に落ちて思えるようになったから、今があります。
    この一年、いやもっとかな?苦しかったなぁ、なんて今思います。
    悟りを開く。昔、憧れたことがありました。悟りを開けば、自分の心が楽になるのかなぁ?と。でもきっと、違うのですよね。この話を聞いていても、ぬいさんの見解?苦笑を聞いても、自分が思っていた『悟り』とはきっと違う。
    (そう言えば、好きだった人は『悟り開いてる人みたい〜』と、たまに褒められて?いましたね。私には少し違うように見えたけど…)

    ブログが大変長く、またコメントも長くなりましたが、いつもありがとうございます(^^)

  2. schedule2018.04.09

    ぬい

    執着
    お釈迦様は執着を捨てるために奥さんと子供を捨てて出家してしまうんですよね
    忘れたくないものを無理に忘れる
    それは自分の心を否定することになるので
    とても辛いことだなと私は思います
    執着を捨てて悟りを得るために僧侶は修行してるわけなのですが
    もし、執着をただ自分のなかのそれを否定するだけで達成するだけで成すことができるのであれば修行なんて必要はないのです
    禅僧の沢庵和尚は心がひとところに止まってしまうことをよろしくないと言っています
    執着を消してしまおうとすることは消すことに心のエネルギーを使ってしまって
    心がそこで止まってしまうわけなので
    ある意味では執着を消すことに執着してる状態になってしまってるわけで
    それでは何にも意味はないんじゃないかなと思います
    むしろ自分の今の心の向きをしっかり観察して執着している心を認めてあげるほうが
    よっぽど健康的なような気が私はします

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